研究ノート

映画と作劇
──これからの映画研究
大久保 清朗



映画にとって脚本とは何か。脚本家とは何者か。

映画を見おえたばかりの私たちがふと洩らす「おもしろかった」「つまらなかった」という、あの素朴な直感は(「泣いてしまった」「寝てしまった」という不覚の生理反応でもいっこうにかまわない)、そのいくばくかは脚本の貢献——いってみれば作劇によるものである。映画のおもしろさとは何か。その公準をきめるなどナンセンスだけれど、それはとりあえず、映画とともにすごした体験を自分の人生として肯定することができるかどうかにかかっているのではないか。その体験を組織するものが作劇といってもいいだろう。

だが私たちは、映画について語るとき、俳優について、音楽について、撮影について語ろうとする熱心さをもって作劇を語ろうとはしないようだ。なぜだろう。繰りかえしになるが、作劇は体験を組織するものであり、体験そのものではないからだ。映画の上映中、目からは映像が、耳からは音響が飛びこんで、私たちを満たしてくれる。だが映像も音響も作劇そのものではない。いくら目をこらしても、耳をすましても作劇はそこにはない。その存在に気づくのは、いつも映画館の灯りがふたたび点いたあとである。作劇のあいまいさとは、まずその事後性にある。


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ここまでひとつの言葉がさけられてきたことにお気づきであろうか。物語。これである。それをはじめからいえば、そんなにこみいった話ではない。映画のおもしろさとは、物語のおもしろさ。作劇とは物語をつくること。それだけの話である。なぜ物語といわず、「体験を組織するもの」などとまわりくどくいうのだ。

だが映画が物語であり物語が作劇であるならば、映画が作劇であるのだろうか。もしそうなら、私たちは映画を見る熱意をもってシナリオを読もうとするか。映画を見遁がしたとき、シナリオを読んで鬱憤を晴らすか。台詞とト書きをおいかければ物語を知ることはできる。だがそれは映画とはほど遠い。映像と音響とによって受肉されて、作劇は生きる。そしてそこに作劇のもうひとつのあいまいさがある。

脚本はたとえそれが物語として完成されていても、撮影されないかぎり未完のままである。そしてひとたび撮影がはじまるや、脚本は現実によって追いこされてしまう。無機質な文字は、現実の映像と音響の豊かさによって凌駕されることを宿命づけられている。作劇のもうひとつあいまいさとは、その媒介性である。



映画の物語は作劇のふたつの側面、いっぽうで現実を組織化する媒介性によって、もういっぽうで体験を組織化する事後性によって支えられている、といえる。前者を生成、後者を受容と呼びかえてもいい。ともかくも、映画はその物語性によって、百年というささやかな歴史をつくりあげていった。

映画史のおさらいになるが、リュミエール兄弟によるシネマトグラフ上映が1895年。これを映画の生誕年とするなら、D・W・グリフィスの処女作『ドリーの冒険』がつくられた1908年を物語映画元年ととりあえず見なしてもいいだろう。映画が物語と手をたずさえて、もうすぐ100年がたとうとしているのである。

物語との連帯によって、映画は19世紀以前の、あらゆる文学や説話を継承することになった。クローズアップやクロス・カッティングなどの発見者が、ほんとうにグリフィスかどうかはさておくとして、ただこれらの試みが、技術的革新であるとどうじに、有史以来の物語を「コンテンツ化」しようとするおそるべき退嬰的運動であったことは確認しておかなければならない。進歩と退嬰はかならずしも背馳しないものである。

かくして映画は物語を獲得する。だがそれはまた映画が物語によってとらわれるようになったということでもある。その事実に抗らうかのように、物語から映画を解放しようとする動きは、20世紀の初めから繰りかえされてきた。そして20世紀後半以降、テレビとの共存の模索のなかで、映画はその物語の全能性を脱し、その存在の根本的な問いなおしへとむかう。



こんにち、批評であれ研究であれ、映画をめぐる思考は、映像によって語られる物語から映像そのものが語る物語へ、組織化された体験から組織化されない体験へむかっている。それは映画史のながれからいって理由のないことではない。

しかしここで奇妙なことがおきる。いまひとつの事後的で媒介的な存在、すなわち映画監督の特権視が始まる。そして脚本家の抑圧がそれと気づかれぬままに進行することになる。監督を作者と見なす傾向は、物語映画の確立とともに定着したものである。だが20世紀後半の「作家主義」は、映画監督を、作劇が組織する体験とは別の体験を可能にする存在として顕揚することを目ざした。批評は作劇の物語性を徹底的に解体する。と同時に、監督を核としてもうひとつの物語を構築する。現実と体験のあらたな組織化の模索が開始される。

それじたいラディカルな運動であるにもかかわらず、「作家主義」はいつのまにか、映画監督を小説家とおなじような創作者とみなす風潮のなかで、あいまいに消費されることになる。「作家主義」のあいまいさは、結果、作劇をめぐるあいまいさを助長することなったのではないか。

「作家主義」は操觚界の捏造とも、批評の偏重ともいえる。だが映画は、作劇にささえられた豊かな物語性によって——すなわち人びとの生を映像と音響によって組織化することで——生きながらえてきた。だとするなら、作劇をむやみにしりぞけるよりも、まずそれを受けいれることが必要なのではないか。反動的かもしれないが、あえて作劇の地点に立ちもどり、脚本家と監督との角逐を見つめなおすことで、作品へのまなざし、監督へのまなざしが鍛えなおされるときが来ていると思う。

大久保清朗(東京大学・院)