第2回大会報告 パネル4

7月1日(日) 13:00-15:00 18号館4階コラボレーションルーム2

パネル4:受容としての「日本思想」〔芸術篇〕

様式を通じた世界との接続――伊東忠太による「日本建築史」/天内大樹(東京大学・院)
近代日本の「美術」と「文化」をめぐる諸制度――矢代幸雄による美術史記述と文化国家論/小澤京子(東京大学・院)
天・地・人をつなぐもの――世阿弥「一調・二機・三声」をめぐって/玉村恭(東京大学・院)

【コメンテイター】横山太郎(跡見学園女子大学)
【司会】柿並良佑(東京大学・院)


「受容としての「日本思想」〔芸術篇〕」と題された本パネルは、柿並良佑氏の司会のもと、7月1日13時より2時間にわたって行われた。三者の発表に先立って、司会の柿並氏よりパネルの主旨、ならびに午前の〔思想篇〕も含めた「受容としての「日本思想」」パネル全体の基本的なスタンスが述べられた。

柿並 良佑


玉村恭氏の発表(「天・地・人をつなぐもの――世阿弥「一調・二機・三声」をめぐって」)は、従来の世阿弥研究の中でも解釈が分かれていた「機」の概念をテクスト内在的に読解しようとする試みである。玉村氏は、世阿弥の「機に〈合わせる〉」という表現が「気合いを込める」「意志を加える」といった意味とは次元を異にすると述べた上で、それが万人の「感応」を意味しているのではないかと指摘する。さらにこの「感応」、すなわち世阿弥における「和合」とは、人と人のあいだに生起するものにとどまらず、草木や動物、天気をも包含した概念であるという。そこから玉村氏は「機」を「世界の編目」であると規定し、それに対する仏教や中国思想(『荘子』)からの影響を指摘する。

玉村 恭


天内大樹氏の発表(「様式を通じた世界との接続――伊東忠太による「日本建築史」」)では、伊東忠太の代表的な論考である「建築進化論」を中心に、伊東における様式概念、およびその建築史観の検討がなされた。伊東は〈世界建築図〉と呼ばれる一見奇妙な様式図において、日本の建築様式とギリシア由来の西洋建築史との接続を試みている。従来、伊東の「日本建築史学」の成立にあたっては、それに先立って日本美術史の成立に寄与した岡倉天心の影響が指摘されてきた。しかし天内氏は本発表を通じて、〈世界建築図〉における伊東の循環史的な様式観が、岡倉の弁証法的な歴史観とは必ずしも一致しないことを示した。

天内 大樹


小澤京子氏の発表(「近代日本の「美術」と「文化」をめぐる諸制度――矢代幸雄による美術史記述と文化国家論」)は、日本における西洋美術史研究の祖である矢代幸雄に焦点を当てたものである。日本初の本格的な美術史研究である『サンドロ・ボッティチェッリ研究』(1925)からは、(1)風土が反映された精神性の表出としての「様式」概念、(2)細部への注視、形態的類似性の連想、という大きく分けて二つの特徴が抽出される。しかし矢代は次第に、文化によって国力や国際的地位の向上を図ろうとする「文化国家論」を唱え始める。そうした遍歴をたどった本発表の締めくくりとして、小澤氏はこの矢代の活動の力点の移行を「美術(文化)研究者が不可避的にまき込まれてしまうステレオタイプな政治性」として提示した。

小澤 京子


コメンテイターの横山太郎氏は、まず本居宣長の『玉勝間』を引き合いに出しつつ、本パネルの主旨を「他なる言葉による思考の(不)可能性」をめぐる考察であると解釈した。発表に対するコメントとしては、能の研究者としての立場から、最初の玉村氏の発表に対してもっとも具体的な質問がなされた。その主旨は、(1)玉村氏が今回扱った「機」の問題は、「能」の研究にとどまらず、「パフォーマンスの始まり」をめぐる問題、ないし「世界の始まり」をめぐる神学的問題にまでつながるのではないか、(2)しかし世阿弥において「機」と「気」が併用されているという点にはもっと論じる必要があるのではないか、というものだった。天内氏の発表に対しては、(1)〈世界建築図〉とは「歴史」が西洋にしか存在しないということを示す図なのではないか、(2)他方、岡倉における歴史観は本当に「弁証法的」であると言えるのか、というコメントがなされた。最後の小澤氏の発表に対するコメントは、『ボッティチェッリ研究』における「形態比較」のようなヒエラルキーを破壊しうる可能性を秘めた方法が、なぜ後年失われてしまったのか、という点に集約された。

その後も依然議論が続きそうな予感を孕みつつ、定刻になり本パネルは盛況のうちに幕を閉じた。狭義の「受容」というテーマにとどまらず、神学、歴史、国家論といった複数のパースペクティヴに開かれた実り豊かなパネルであったと言えるだろう。

星野 太(東京大学・院)

本パネルは、「受容としての日本思想」と題された一連の研究発表の、芸術編である。

近代日本において営まれた思想的営為は、研究という領域においてはしばしば、イデオロギーを体現する言説として批判されるか、大文字の「哲学」として擁護される。芸術作品もほぼ同様であり、作品として囲い込まれるのでなければ、その時代のイデオロギーを記述するための素材となってしまう。そうしたなか、芸術思想と呼ばれる営為は、そのどちらにも所属せず、極めて曖昧な領域を構成している。一方でそれは生の美的完結や、対象を持たない精神性の超出を作品に即して語る言説として、国家的イデオロギーの精神的支柱とも見なされうる。しかし他方で、仮にそのような方向性を持った思想であっても、具体的な物質的水準の分類・規定が中心とならねばならないそれらの言説の中では、その失敗が常に何らかの形で告白されている。場合によっては、そのような抵抗として生じる物質性が改めて美的対象と名指されていることさえあるだろう。

本パネルでは、明治・大正期の芸術思想、そして世阿弥のテクストを、様々な水準での外部性との接触という観点から読解した発表が行われたが、発表者たちは対象を曖昧に美学として囲い込むのでも性急にイデオロギーに還元するのでもなく、より深い水準で作動している政治性を浮上させるため、あくまでひとつの邂逅の経験として描出することを試みていた。

まず、天内氏は、日本建築史家の泰斗とされる伊東忠太の、建築様式の進化をめぐる議論を検討に付した。天内氏が注目したのは、伊東が様式史を記述する際に採用した生物学的な進化論的図式である。岡倉天心がヘーゲル的な発展のプロセスを採用したのとは対照的に、伊東は様式の変化をあくまで連続的で自然発生的な進化という相のもとで捉えようとした。伊東は様式の変容を、「意匠」における循環的変化と「材料」における一方向的な連続的変化に区分し、建築様式をそれぞれの相互作用による進化と考えた。

このような図式において、大きな様式的変容は意匠における偶発的な躍進に依拠することになる。岡倉が弁証法的な観点から「古いものの回帰」としてのルネッサンスを評価するのに対し、伊東は大域的な様式からの大きな飛躍を遂げたギリシア建築やアール・ヌーヴォーを評価する。伊東は日本の建築も、そのような脱出の途上にある「煩悶」期にあるとした。しかし、変化は材料の連続的な変化でなければ意匠の偶発的・革命的変化に依る、と考えた伊東は、現状に対する意識的な働きかけは拒否した。

岡倉との比較が時に議論を拡散させてしまうことはあったが、「スタイルの創造」を渇望しながらも、人工的な移植を拒否した若き伊東の「煩悶」そのものを浮かび上がらせた発表であったと言える。確かに、伊東の世界史的な観点は、発表者の言うように「脱亜入欧」とは見なしがたいだけでなく、そのガンダーラ様式やギリシア建築も含み込む凡ユーラシア的図式は「大東亜共栄圏」として想定されるアジアをも遥に逸脱している。伊東がイメージした「生物」とはひょっとしたら彼が愛好していた奇形的な怪物の姿をしていたのかも知れない、という連想さえ浮かんで来た。

次に小沢氏は、美術史家の矢代幸雄の方法論、独特の「イメージ分類学」に焦点を当てた発表を行った。イタリアでバーナード・ベレンソンに学び、ロンドンでボッティッチェリ研究を出版した矢代は、切り取られた細部同士の比較によって類似性を発見するというベレンソンに学んだイメージの分類学的方法を、日本絵画の身分を確定するための方法論として転用した。矢代は、イタリア絵画と日本絵画には「装飾的・精神的性質における共通性」が存在すると、細部のクロース・アップによって発見された形態的類似性において主張した。矢代は1930年代以降日本美術の固有性を主張するようになるのだが、発表者は、このような方法論を浮上させることで、その態度が根本的に倒錯を抱えている、と指摘する。それは二つの等価性を保証する共通平面をまず必要とする。その上で、鏡像的に互いを反映し合う相対的な文化が競合することになる。それゆえ、固有であるという判断はあらかじめ他者の視線に横断されており、彼が日本芸術の固有性を主張する際には、西洋を席巻したジャポニズムをそっくり反復せざるを得ない。これが倒錯であるというのは、一見明治期の知識人のように他者としての西洋に直面しているように見えながら、その基底にこのような普遍的な同一性が存在しているからである。教養主義的な普遍性への信頼(共通平面)、価値相対主義(文化それぞれの固有性)、そこから帰結する日本文化の固有性。発表者は、このような判断のメカニズムに基づいた矢代の態度は、西洋美術研究者、日本美術への回帰(転向)、戦後の「文化国家」の提唱に至るまでまで一貫していたと結論する。1920年代から戦後に至る思考の同型性を抽出することで(つまり転向の不在を明らかにすることで)、とりわけ大正期以降の美的な言説に潜んでいる政治性を浮上させた発表だったと言えるだろう。

さて、次の玉村氏による発表はこれまでの発表とは異なり、世阿弥の「機」の思想に新解釈を与えることを試みたものである。玉村氏は演者の発声について述べた「一調・二機・三声」という世阿弥の言葉に注目したうえで、一旦実践知から離れ、あくまでテクストの内在的読解によって、それが演者の身体や場の個別性に還元できないある超越的な契機を含むことを明らかにしようとした。世阿弥の言う「機」はこれまで「気=息」として、演者が発声する際の主体的契機として理解されてきた。しかし、玉村氏は「機」と「息」の同一視に疑問を差し挟む。「機」と「息」は同根だが作用において異なっており、それは、「節」と「曲」の関係に比されるべきものであるという。「曲」はあくまで「節」より自ずから漂い出るものであり、「機」も同様に、主体の意志を超えた何かを含んでいるのである。玉村氏はこの他者性を「伏蔵性」あるいは「如来蔵」と結びつける。それは人のみならずあらゆるものに偏在している人称性を超えた流動的な状態であり、通常の心身の臨界点の先(手前)にあるそのような状態の到来を読むのが「感」であり、それが到来する瞬間が「機」と呼ばれているのである。そして、このような状態は自己の内部にそなわっている。そのような状態を外化することで声は「調子」を伴ったものとなるのであり、他者としての自己に反応し身を委ねることは、発声なりさらには舞を舞うための必要条件である。発表者は、こうした他者としての自己との共振は、舞台の上で一つの世界を生起させることにも等しく、また世阿弥にとって能とは常にこのような他者性との相関関係にあるものであったと結論した。

発表には宗教的な含意に関してコメンテーターより質問があり、また、会場からも、伊勢神道における「機前」の概念のような外部の言説との関係が看過されているのではないか、との指摘があった。筆者には、実践的言説と哲学的言説との区別、言説のタイポロジーが必要なのではないかと思われた。玉村氏は「機」をいまここにある「息」から、誰にでも備わっており、どのような場においても成立するある普遍的な次元への跳躍の契機として記述した。こうした普遍性への訴えは、たとえばスタニスラフスキーやメイエルホリドの演議論にも見られるのである。しかし、このような、平たく言えば「アクティング・メソッド」と呼ばれる言説においてはしばしば、普遍的な概念が、むしろその場の固有性によりよく感情移入するために、半分は方便として使用されている。このような技術的な水準で言われる「普遍」と、哲学的、宗教的言説における概念としての「普遍」とのテクスト上での機能の差異、あるいはテクストが想定している外部性の差異を問題にし、こうした実践的言説の性格を大きく明らかにしなければならないのではないかと思われた。

それぞれの発表にそれぞれの学的文脈があり、全体を俯瞰する位置を構築するのが困難なパネルではあった。発表者自身も、共有すべき学的コンテクストの不在から、伝達すべき情報の階層関係を築き上げることに困難を感じていた節も伺えた。しかし全体に、新たな議論の枠組みを構築しようという野心が感じられ、長期的な研究成果への期待を抱かせる発表であったと言える。

畠山宗明(早稲田大学・非常勤)

パネル概要

ある文化現象の生起に主導的役割を果たすのは、自律自閉した思考主体による創意や地政学的コンテクストのみではない。とりわけ芸術と名指される分野では、むしろ「他者」との邂逅や対話関係によって、その歩みが形成されてきた。その過程は、ややもすれば単純な影響関係としてのみ語られる傾向にある。その一方で、「日本的なるもの」という自律的かつ自足的な存在を措定し、そこに何らかの思弁や言説・作品を派生させるような「本質」を見出す思潮も、いまだ根強く残存している。かような趨勢からは批判的距離を保ちつつ、それでもなお「日本(的なるもの)とはなにか?」と問い続けるならば、過去の断片化された痕跡や遺された言葉の探査という、特異的かつ発散的な「出来事」に対する繊細かつ愚直な試みが要請されることとなるだろう。

我々の言う「日本思想」とは、広義かつ仮設的なカテゴリーである。それは何らかの本質の謂いではなく、むしろ「他なるもの」との邂逅、格闘と受容、他方の曲解や誤解、忘却といった一連の流れに付された、いわば通り名のようなものだ。本パネルではかかるアプローチを取ることで、従来の日本思想史研究や受容研究、比較文化研究等とは異なった視点を提示したい。積極的・統一的な収斂点は前提とせず、各発表によって結果的に形成されるかもしれぬ多焦点的な状況布置を、来聴者との議論も交えながら浮かび上がらせることを期待している。

【本パネルは、「受容としての「日本思想」〔思想篇〕」と連携しており、2パネル1組として構想されたものです。】(パネル構成:小澤京子)

「様式を通じた世界との接続――伊東忠太による「日本建築史」」
天内大樹

本発表では、まず日本建築史学の泰斗と目されてきた伊東忠太における「様式」概念を,彼の代表的な論考である「建築進化論」から抽出する。「建築進化論」で「進化」するとされた「建築様式」は、歴史学者の視線で西洋由来の建築史学的視座から整理されている。この議論の背景には、とくに日本の「建築様式」が西洋の影響を受けて以降いかに変化していくのか、変化すべきかといった建築界の議論があるが、伊東は日本の「建築様式」をギリシア由来の西洋建築史と対応関係を失わない形で説明しようとしていた。そこでは諸様式間の価値判断は脱落しており、歴史学的・地理学的に等し並みに配置された各様式のマッピングがなされ、それが日本の「建築史」を世界的な建築史と接続する理論装置と化していた。こうした「日本建築史学」成立にあたっては、すでに日本美術史学の先駆けの一人とみなされてきた岡倉天心の影響が指摘されてきた。岡倉においても日本における美術史学の成立にあたって、西洋由来の世界美術史が援用されているが、ギリシアに代表される古典古代への態度に関しては、伊東のそれと微妙にずれており、岡倉は東洋美術の隆盛を「東洋的ロマン主義」の高揚をもって説明した。これについては「象徴的」「古典的」「ロマン的」というヘーゲル的な歴史把握の影響も指摘されてきたが、ではそうした影響がなぜ伊東に伝播しなかったのか、本発表はこの問いへの説明を試みる。

「近代日本の「美術」と「文化」をめぐる諸制度――矢代幸雄による美術史記述と文化国家論」
小澤京子

本発表では、日本における西洋美術史研究の祖であり、日本美術の紹介や文化財制度の整備にも尽力した人物、矢代幸雄(1890-1975)を扱う。欧州での研究成果を纏めたボッティチェッリ論(1925)は、日本人による初めての本格的な西洋美術史研究であった。帰国後の彼は、日本美術の地位向上に尽力するようになる。それは個人の趣味判断としての「日本回帰」ではなく、西洋的教養を身につけたエリートの、自らに課された社会的役割期待に対する応答であった。英米の大学でも教鞭を取り、数々の美術館で役職を務め上げた経歴は、国際的視野をもった日本の文化人という立場を彼に要請した。かかる状況の中で矢代が唱えたのが、文化によって国力や国際的地位の向上を図ろうとする「文化国家論」である。彼の論調は、戦前から戦後まで一貫して中立的な外観を保っているが、自国文化をナショナル・アイデンティティーの根拠に据えようとする巧妙な政治性を潜ませてもいる。

ここでは1)美術史研究の西洋からの継受と自律的・内在的な確立、2)西洋文化に比肩しつつ独特の価値を有するものとしての日本美術観、3)戦後日本の「文化人」に課された役割期待と「文化国家論」、という三点が分析の対象となる。それは日本近代に特有の問題系を炙り出すとともに、今なお「西洋美術史」や「文化財」を囲繞する、様々なレベルの「制度」に対する問題提起ともなるであろう。

「天・地・人をつなぐもの――世阿弥「一調・二機・三声」をめぐって」
玉村恭

世阿弥の有名な言葉に、「一調・二機・三声」というものがある。彼の能楽論には中国思想や仏教哲学など先行思想の流用が多く見られるが、「一調・二機・三声」の中核に位置する「機」の概念もまた、仏教的な「機」および中国思想で伝えられてきた「気」の哲学の換骨奪胎によって着想されたものである。だが問題は、彼がそれを単なる流用にとどまらせず、いかにして独自の地点に到り着いたかを見極めることである。

「一調・二機・三声」は、演能の開始、とりわけ最初の一声を発することの要諦について論じたものである。「機」とは「気」であり、息に主体的意志が加わったもの、とこれまで解されてきたが、世阿弥の「機」には、演者の主体性に還元されない広がりが蔵されている。それは人が人である限り持ち得る心のある様態であり、従って心を有するあらゆるもの、すなわち天下万物が相互に「感応」するための手がかりとなるものである。万物は「機」によって通じ合っているばかりではなく、「機」の様態によって常に互いの位置を確かめ測り合っている。世界は、そのように「機」によって編み上げられたものとして理解することが可能である。能を演ずるとは、演者が「調子」を「機」に合わせ、「当気和合」を実現することによって、「機」ないし「気」の小宇宙としての世界の形成に参与することに他ならない。

横山 太郎