第2回大会報告 | パフォーマンス報告 |
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パフォーマンス報告
身体と声――巻上公一の冒険
報告 : 内野 儀
6月30日(土) 18:00-19:00 18号館ホール
「声と身体――巻上公一の冒険」
Part1 … 巻上公一ソロ
「黒い鶴」(トゥバ民謡)
「ヤバラホエ」(作詩作曲:巻上公一)
Part2 … マキガミックテアトリック公演
チャクルパ3「ウルルンソナタ」宇宙語の旅
(作演出作曲:巻上公一/音響:坂出雅海/照明:津田喜久子)
現代日本の舞台芸術は、欧米とは異なる独自な――とはいっても、芸術が制度として成立していない他の文化圏でも同じようなことが起きているだろうが――展開を見せている。図式的にいうなら、一方に、エンターテインメントと芸術が奇妙に混交したスペクタクル商業演劇があり、他方に、自閉的な共感の共同体向けの小劇場演劇がある。これは極端な図式化だが、的外れな図式ではないだろう。そんななか、注目すべき動きが出てきている。しかも、「見る演劇」としての商業演劇ではなく、「やる演劇」――だれでもできる演劇――としての後者の範疇での話である。それをわたしはワークショップ演劇と名付けた。
確かにワークショップなるものは今や一般化し、常時どこかで開かれているわけだが、その結果としての上演は通常は発表会であって、論じる対象になることはほぼ皆無である。ところが、稀に例外がある。わたしの知るかぎり、その例外を担っているのは今のところ、元ダムタイプで美術家の高嶺格が関西圏で展開しているパフォーマンスのシリーズと、今回学会に招聘した音楽家の巻上公一による「チャクルパ」のシリーズである。
ヒカシューのメンバーとして知られる巻上は、ただ単に音楽家としてだけでなく、アメリカの演劇作家リチャード・フォアマンの日本紹介に尽力するなど、演劇、より正確に言うとパフォーマンス演劇にも長年興味を示してきた。その彼が、ワークショップの参加メンバーと展開しているのが「マキガミ・テアトリクス チャクルパ」というシリーズである。今回学会で上演されたのはその最新作で、クルト・シュヴィッターズの『ウル・ソナタ』(1922〜32)に想を得た『ウルルン・ソナタ 宇宙語の旅』である。
実際の学会の舞台では、まず巻上による「黒い鶴」(トゥバ民謡)と電子楽器テルミンと声による「ヤバラホエ」(巻上自身の作)のソロ・パフォーマンスがあった。引き続き、巻上にワークショップ参加者20名以上が加わった『ウルルン・ソナタ』の上演となった。
舞台前方には段ボール等を使った奇妙なオブジェが多数置かれ、その背後にまちまちの衣装を着て楽器などの鳴り物を手にしたパフォーマーたちが囲むという構図である。基本的に無意味な音の羅列からなる『ウル・ソナタ』を巻上は、多数のパートに分割して、60分に及ぶ〈奇妙な音の饗宴〉へと仕立て上げた。パフォーマーたちは、ほとんど何にも束縛されることなく、ほぼ勝手に体を動かし、楽器を鳴らし、声を出す。もちろん、巻上が準備したスコアがあって、それに沿っての演奏であり、構成は相当に複雑であり、かなりのリハーサル時間を要したことは想像にかたくない。
素人の空騒ぎ? ぱっと見はそう見えるだろう。芸術という〈視線〉をはずさないかぎりは、ぱっと見どころか、どこまでいってもそうである。しかし巻上は、わたしたちに素直に、できるなら芸術という〈偏見〉を捨てて、このパフォーマンスに対峙することを求める。もちろん巻上にとって重要なのは、素人のエネルギーを爆発させるとか、ワークショップの発表会を、それらしいテクストを用いることで、発表会らしくなくすることでもない。ただ単に、世界には日常を生きるさまざまな人々がいて、それぞれが様々な思いを抱えて生きているということである。あるいはこう言ってもよい。身体はまだある、と。こうして巻上のパフォーマンスは、物語や意味でもなく、音そのものやイメージでもなく、そこで声を出す人々の身体へとわたしたちの視線を向かわせる。そしてそのとき、わたしたちもまた、自分にも身体はまだあることに気づくのである。
内野 儀(東京大学)