海外の学術誌 |
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モンゴルの学術誌
――民主化の前後
木村 理子
今回、思いがけずモンゴルの学術誌を紹介させて頂く機会を得たが、表象という概念自体、まだモンゴルの学界には入っていない。そのため、表象関連の学術誌として紹介できるものは見当たらない。そこで、あえて内容に触れず、モンゴルの学術誌の紹介にとどめさせて頂くことをお許し願いたい。
現在のモンゴル国は1924年からソ連崩壊の1992年までモンゴル人民共和国という社会主義国家であった。独立国であるものの社会主義時代には社会基盤を構成する全ての分野においてソ連と同様の政策が、ソ連の経験に倣い、ロシア人指導員によってソ連と同様のモデルを用いて施行された。そのため、社会主義時代のモンゴルの学術誌は、モンゴル語とロシア語で刊行され、その他の使用言語は、社会主義同盟諸国の言語と、希に国連公用語のフランス語と英語であった。モンゴルの学術誌を想像する場合、旧ソ連や東欧諸国の学術誌を思い浮かべるといいだろう。キリル文字表記によるモンゴル語であることはもとより、ソ連の刊行物と同じ様式の上に、紙の質や臭いまで同じなのである。
モンゴルにおいて学術誌と国家政策は切っても切れない間柄にある。現在の学術誌の母体が誕生した社会主義時代には、学術誌は国家の管理下、検閲下にあった。モンゴル初の学術誌は、1945年に科学研究所(科学アカデミーの前身)より刊行された『科学』である。1945年は、ヤルタ会談でモンゴルの独立が保障された年でもある。無論、1945年まで学術誌が存在しなかったとは思えない。しかし、現在のモンゴル国の歴史上、モンゴル初の学術誌創刊年は独立が国際的に認められた1945年であり、この年の学術誌発行は、戦後における独立国としての新たな出発にあたり、近代国家に相応しい研究機関設立に伴うものであったのである。さらに、1961年の政策転換期には科学アカデミーより『モンゴル研究』『言語文学』『口承文芸研究』『歴史学研究』『考古学研究』や、ソ連が提供した文献に限られるものの、社会主義体制以前のモンゴル文学の文献の一部を掲載した『Corpus Scriptorum Mongolorum』がシリーズで刊行されている。1961年は、フルシチョフ時代、名誉回復が図られた時期にあたり、スターリン時代に否定された国事犯の作品や旧時代の文献が一部解禁された年でもある。
その後、1990年代の民主化への移行期には、これら科学アカデミーの学術誌は発行難に陥る。おそらく、財政難というよりは、体制崩壊に伴い科学アカデミー自体がその存在理由を見失い、新時代への切り替えに時間を有したのであろう。その間、1990年に国際モンゴル学会が『Mongolica』と『Bulletin』を発行し始める。これは旧来の科学アカデミーの学術誌に代わりモンゴル国の学術誌としていち早く内容の切り替えを図ったものであったといえよう。
今日、高度経済成長期に入ったモンゴルでは、科学アカデミーや大学は財政難を克服し、国際的研究機関として学術誌発行に力を注いでいる。民主化後の学術誌の使用言語は、社会主義時代の言語に蒙古文字、チベット語が加わり、外国人研究者が母語で書いた論文も掲載可能である。一冊の学術誌の中に翻訳を伴わない異なる言語で書かれた論文が雑録されている状態であるが、使用言語を問わないというのが民主化後のモンゴルの学術誌の特色でもある。これは他民族の言語や文化を尊重したモンゴル帝国時代に通じるものであろう。つまり、どんな言語も自由な言論の手段としてモンゴルでは有効なのである。そして、それにより、モンゴルの学術誌は、今や、モンゴルに関わるものであれば、言語や内容を問わず世界中の研究者に自由な発表の場を提供するものになっているのである。
木村理子(東京大学)