第2回大会報告 | パネル1 |
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7月1日(日) 9:30-11:30 18号館4階コラボレーションルーム1
パネル1:20世紀中国における美と政治
朱光潜と李沢厚の論争/橋本悟(東京大学・院)
戦後台湾におけるモダニズム美術史の構築――1980年前後の李仲生とある美学者の論争をめぐって/呉孟晋(東京大学・院)
1980年代中国「美学熱(ブーム)」の位相――李沢厚、劉暁波、劉小楓の論争を中心に
/秋山珠子(中央大学・非常勤)
【コメンテイター】【司会】中島隆博(東京大学)
本パネル「20世紀中国における美と政治」では、橋本悟(東京大学大学院博士課程)、秋山珠子(中央大学非常勤講師)、呉孟晋(東京大学大学院博士課程)による発表が行われ、中島隆博准教授(東京大学)にコメンテーターおよび司会を務めて頂いた。
まず、最初の発表は、橋本悟「朱光潜と李沢厚の論争──『美の社会性』と『中国』」であった。この発表では、中国で1950年代から60年代初めに起こった「美学論争」における、朱光潜と李沢厚の間の論争が扱われた。そこで最大の争点となっていた「美の社会性」をどう捉えるかという問題は、すでに朱光潜が30年代にクローチェ美学を受容・批判した際の最大の賭金でもあった。李沢厚はその「美の社会性」を捉えるために、マルクスの「経済学-哲学草稿」における「対象化」の議論を主体の歴史的規定性を強調して解釈し、後に「文化心理構造」として概念化される中国文化論に先鞭を付けていた。振り返ると、朱光潜のクローチェ批判の動機も、美学に「中国」という場所を与えることであった。朱光潜と李沢厚は、美学という概念で個人と社会の関係性を考察しながら、それを突き動かしていたのは「中国」という歴史性であり、それを参照しながら近代的な個人と社会の関係性を実現するという課題であった。
橋本 悟
次に、二番目の発表は秋山珠子「1980年代中国『美学熱(ブーム)』の位相──李沢厚、劉曉波、劉小楓の試み」であった。この発表では、1980年代改革開放期の思想をリードした李沢厚と、彼に対する二人の若い批判者、劉曉波、劉小楓との間の論争とその社会的背景が論じられた。李沢厚は、階級一元論を批判するため、文化の継承性を主張し、それを漢民族の無意識に沈殿する「文化心理構造」として定式化した。それに対し劉曉波は、李沢厚的な文化的一体性を前提とすることで主体から奪われる「行為の自由」を回復しようとした。劉曉波はその上で、行為する主体は多数の個からなる観客を前にする必要があるとしたが、そこに「現れの政治」(アーレント)の空間が開かれたのである。他方の劉小楓は、記号化された活動空間において意義や価値を創造する人間の能力を重視し、反ヒューマニズムの立場からキリスト教的な神への愛こそがそれを実現すると論じた。劉小楓はそこで、「思考の自由」を回復しようとしたのである。それを李沢厚は中国の精神に合わないとして批判する中で、劉小楓の議論は「亡命者」の言説であったと言える。最後に発表者は、これら三人の思想が天安門事件以降に辿った軌跡に注目すべきだと指摘した。
秋山 珠子
最後の発表は、呉孟晋「戦後台湾におけるモダニズム美術史の構築──1980年代前後の李仲生とある美学者の論争をめぐって」であった。この発表では、画家李仲生と美学者劉文潭との間で1980年前後に起こったモダニズム美術史を巡る論争が扱われた。そこで争点になっていたのは、モダニズム美術史と「中国」との関係性であった。李仲生にとってのモダニズム芸術とは、西洋においてそれ以前の自然模倣から断絶することで生まれた、言葉で伝えることのできないものを伝える「心意」による芸術であった。それに対し、劉文潭はモダニズム芸術をそうした断絶によって捉えることを批判し、西洋の伝統の継起のなかで生まれたものと考えた。ここで注意すべきは、李仲生が西洋の伝統の断絶によって捉えようとしたモダニズム絵画が、逆に中国の伝統と結びつけて考えられたことであり、彼は京劇の簡素な舞台装置にモダニズム絵画との類似を読み込んだ。ここで李仲生が演劇を参照した背景には、李仲生がモダニズム絵画においては「画家を演じる」必要性があることを論じていたという事実があり、またそれは、ローゼンバーグが画家を演じるという意味での絵画の行為を語っていたことと響き合っていた。
呉 孟晋
以上の発表に対し、中島隆博准教授からのコメントは次の通りであった。
三人の発表を通して、問題になっているのはやはり「Chinese modernity」であろう。
1. 最初の発表については、そこで提起された朱光潜と李沢厚の間の捻れた関係を通して、近代性における「中国」というトポスをいまどのように再考できるのか、そしてそこで考えられる、aestheticなものを通じた新しい共同性とは何か?
2. 二つ目の発表については、二人の若い批判者は、李沢厚のように「中国」という固有性に直接向かうのではない、別の公共性と権力の空間を開こうとしたが、1980年代に目指されたその空間は、「中国」とどのような関係にあったのか、それは複数の過去への参照という継起を含んではいなかったか? この問いは、近代性自体のハイブリッドなあり方という問題につながっていくだろう。また、劉小楓はなぜそこで敢えて「超越」という概念に訴えざるをえなかったのか?
3. 最後の発表については、李仲生のようにモダニズム絵画と中国の伝統を結びつける議論を理解するためには、台湾におけるcolonial modernityという概念が役立つのではないか? その上で、劉文潭との論争を伝統への参照の仕方の違いという観点から再解釈できるのではないか?
以上のコメントに対する発表者の応答は、次の通りであった。
1. 近代性の中での「中国」というトポスを考える際、李沢厚が中国の文化的伝統に直接向かったのに対し、朱光潜は美学という近代的言説の内部で中国と西洋の差異という事実性をどのように考えるべきかという問題を立てていた。その議論を再読することで、朱光潜にとっての「中国」とは最終的には何だったのかを明らかにすることが今後の課題だろう。そこに、近代性における「中国」というトポスをいま考える別の可能性があるかもしれないと思われる。
2. 劉小楓の「超越」の強調という点に関しては、彼が「文化キリスト者」という概念で、教会に属するのではない個人の信仰を重視したとき、それが他者とのどのような関係を開くことができるのかを考え直すことが必要だろう。この点は、劉小楓の「超越」がもつ危うさを示唆しているように思われる。
3. 李仲生は、「行為」を強調することで、台湾という場所で中国におけるモダニズムを創造することができると考えた。しかし、そこでモダニズム絵画とは何かという実体に関しては何も語らなかったように思われる。
中島 隆博
フロアからは次の質問が寄せられた。
1. 秋山氏の発表に対して:李沢厚はカントをどのように読んで、何を決定的に批判したかったのか?
2. 橋本氏の発表に対して:李沢厚のマルクス解釈において、「社会」という概念の理解はマルクスに忠実だったのか、あるいは中国的なトポスに従って再構成されたものだったのか?
3. 秋山氏の発表に対して:美学熱と、当時の芸術家・批評家の活動とは何か接点があったのか?/呉氏の発表に対して:決瀾社が東京で展覧会を開いたという事実はあったのか?
それに対する発表者からの回答は以下の通りであった。
1. カントは、唯心論の思想家として中国では抑圧されていたが、李沢厚はその状況を変えるためにカントを論じた。それゆえ、李沢厚の議論にはカント批判というよりカントと重なる部分がかなりある。
2. 李沢厚における「社会」に関しては、その構成員の個人が歴史・教養・文化などに規定されているという点が重要である。その意味で、「中国」というトポスの負荷がかかった解釈であったと言える。
3. 人的なつながりはかなりあった。美学論争は80年代前半には直接制作に触れなかったが、後半には実作との交流が増え、影響力を持つようになってきた。/決瀾社は東京では展覧会を開いていない。
最後に、以上の発表と議論によって、「中国の近代」という問題を、美学とそれが持つ〈政治的なもの〉の次元を通して考察してゆく端緒が示されたこと、そしてその際、この問題を実際の作品と付き合わせて考察してゆく必要性が確認されたことが、本パネルの成果であったと言えるだろう。
橋本悟(東京大学・院)
パネル概要
近代中国美学は、蔡元培による「美育を以て宗教に代える」(1917年)という主張にはじまり、美や芸術の持つ政治-倫理的機能を繰り返し議論してきた。それは、クローチェ美学の影響の下に論理的知に先立つ直感的知の領域を画定しようとした、近代中国を代表する美学者朱光潜(1897-1986年)においても、「人生の芸術化」というテーゼに集約される形で繰り返し現れていた。そしてこの問題は、民国期、日中戦争・国共内戦期での模索を経て、共産革命により中国大陸と台湾に分裂した20世紀後半において特に捻れた形で継承されていった。例えば、朱光潜美学は李沢厚らによる全面的な批判にさらされたし、60年代の反共政体の台湾では、「自由中国」の文化的象徴たるモダニズム美術がピカソやグリーンバーグの左傾化により伝統美学と交配した変形的なモダニズム理論が登場している。このような歴史を振り返ると、20世紀中国において、美学は一方で知識人が政治の領域から距離を取ることを可能にしながら、他方で人々の感性に影響を与え、それを組織することで特に国民国家という近代的な共同体の基礎を構築すべく、社会においてまさに政治的に機能することが期待されるという両義的な働きをしてきたことが理解できる。このパネルでは、20世紀中国におけるこの両義的な「美と政治」の問題を巡る実践と闘争について、美学・思想・美術史の言説の分析のみならず、具体的な芸術作品・美術運動・美術批評の分析という両側面から考察することを期したい。それにより、文学作品の寓意的分析に偏重したこれまでの近現代中国文化・芸術研究の動向に対し、美学や芸術が社会の成立に果たす機能という観点から、より批評的な分析を試みたい。(パネル構成:橋本悟)
「朱光潜と李沢厚の論争」
橋本悟
1950年代末から60年代初めにかけて、中国では「美学大論争」が巻き起こった。そこでは、1933年に欧州留学から帰国して以来近代中国美学を代表してきた朱光潜が、当時中国においてマルクス主義美学の設立を主張し始めた李沢厚や蔡儀らによる批判を受けて自己批判を行いながらも、同時に彼らの美学理論に対する再批判を行うという論争が見られた。本発表では、そこでも特に朱光潜と李沢厚の間の論争に着目し、朱光潜美学を「唯心論」とする批判とそれに対する朱の応答を、単なるイデオロギー対立として捉えるのではなく、そこでどのような美学的・哲学的問題が争点となっていたのかを明らかにしながら、この「美学大論争」を通して近代中国美学がどのような屈折を被ったのかを考察することを目的とする。というのも、李沢厚はその後の改革開放期の思想に先鞭を付けたばかりでなく、現代中国における美学教育の理論的基礎を与えるなど最も影響力を持つ美学者として評価されているものの、そうした流れが1949年以前の美学とのどのような関係性に起源を持っているのかはいまだ十分に議論されていないからである。そして本発表では、こうした論点を単に20世紀中国の文脈内部で議論するだけでなく、朱光潜が影響を受けたクローチェ美学、またそのクローチェとマルクスとの関係というヨーロッパの文脈と対照させることによって考察したい。
「戦後台湾におけるモダニズム美術史の構築−−1980年前後の李仲生とある美学者の論争をめぐって」
呉孟晋
1979年末から翌80年初めにかけて、台湾の有力紙『民生報』上でアヴァンギャルド美術をめぐる奇妙な論争が展開された。1930年代に東京で活動した外省籍の抽象画家・李仲生が、自らのモダニズム絵画論に疑義を呈した台湾大学の美学教授・劉文潭に対して美術用語の辞書的定義を羅列して回答したこの論争は、かつて台湾美術界を牽引していたロートル芸術家のパフォーマンスとしてあまり注意を惹いていない。しかし、シュルレアリスムや抽象表現主義のなかに超越的な意思伝達の手段である禅の精神(李のことばでは「心眼」)を説く李の見解は、中国美術の復権という近代国民国家の文化構築に不可欠の使命を帯びていた。これに対して劉はアカデミックな見地から、「自由中国」という分裂国家として冷戦構造のなかで欧米文化を受容せざるを得なかった台湾のアポリアを指摘したのである。本発表は、この論争を手がかりにして、戦後台湾のモダニズム理解を代表する李仲生による美術史のエクリチュールを明らかにしたい。具体的には「心眼」のモダニズムに到る前提として自然と写実に対する李仲生の認識を概観したうえで、後期印象派からシュルレアリスムに到る20世紀前半のさまざまなイズムの系譜にみえる李の批評意識を検証する。そのなかで、李がモダニズム美術史記述の参照軸としたクレメント・グリーンバーグのフォルマリズム批評からの「ずれ」に留意したい。
「1980年代中国「美学熱(ブーム)」の位相―李沢厚、劉暁波、劉小楓の論争を中心に」
秋山珠子
1980年代中国「美学熱(ブーム)」は、文革終結直後の、国家イデオロギーの知識社会への政治的統制力が相対的に弛んだ1979年に出現し、知識人の政治参与がピークを迎えた1980年代末に収束した。本発表は、1980年代の思想界をリードした李沢厚(1930-)と、彼に対する主要な二人の批判者、劉暁波(1955-)および劉小楓(1956-)の、美と自由をめぐる議論を手がかりに従来の中国研究が十分注目してこなかった美学熱の位相を検証するものである。
文革終結直後、美学熱の先導者であった李沢厚が、カント美学批判の形を借りて提起したのは、いかに権力の恣意を抑制し、個人の「自由」の空間を生起させるかという命題であった。カントとは対照的に、李沢厚は美を自然の強制力および有用性の原則に委ね、欲求者としての人間を肯定し、個体の「実践」を歴史の中に「積澱(堆積)」させる「文化心理構造」説を提起した。
対して劉暁波は、美は「衝突」の中に現れるとし、1980年代中期から高まった社会のモビリティを背景に、「行為」の自由を提唱していく。劉暁波において行為は自由であろうとすれば、動機付けからも意図された目標からも自由でなければならず、その固有の「現れ」、すなわち多数の個から成る観客に見られ、吟味されることを必要とする。しかし有用性原則に支配され、文化的一体性を強調する李沢厚の「文化心理構造」においては、「行為」が追求すべき卓越性は逸脱として排除される。
対して、劉小楓は「思考」の自由の問題を提起する。伝統を肯定し、儒教規範の内面化を主張する李沢厚の「文化心理構造」において、個人の倫理は、近代化を旨とする国家の倫理に従属する。キリスト教神学に接近した劉小楓は、個人のディスクールを、国家の倫理に所属し得ないもの、すなわち内的亡命者の言葉として語った。劉小楓のディスクールは、みずからに亡命を強いる契機―政治の過剰―を不断に批判し、「思考」の領域を「政治」の領域から分かとうとするものであった。