第2回大会報告 | パネル7 |
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7月1日(日) 15:30-17:30 18号館4階コラボレーションルーム2
パネル7:死を葬(おく)る――表象をめぐるホラーと喪の物語
圓朝の幽霊、あるいは怪談噺の粘着性について/斎藤喬(東北大学)
死の(代理)表象の造作――燃える子供」の夢の解釈例から/松本由起子(札幌大学)
楳図かずおとホラーの目撃者――主人公の不死性と可死性をめぐって/石岡良治(大妻女子大学・非常勤)
【コメンテイター】【司会】齊藤征雄(東北大学)
本パネルは、怪談噺と恐怖漫画と夢内容を題材とした三つの分析を通じてホラーと喪の物語について発表と討議を行うことを目的とするものであった。遺される者たちが味わうホラーとは、自己の死を待ちながら喪に服す時間と空間が否応なく押し付けてくる情動であるとするなら、確かにこの異なった三つの物語形式によってホラーを語ることは興味深いであろう。
本パネルを企画した斎藤喬氏(東北大学)は、「圓朝の幽霊、あるいは怪談噺の粘着性について」と題して、名作「真景累ヶ淵」中の「豊志賀の死」を中心に考察を進めた。物語の内容を熟知しながら寄席に詰めかける者たちにとって、繰り返し語られる物語世界とは色褪せた疑似体験に過ぎず、そこにあらたな情動を惹き起こすことが至難の世界である。今に残るテクストが口演速記というパフォーマンス性の強いものであることを念頭に、圓朝の語り口の本質を粘着性と見て、その語り口によってホラーを寄席全体に蔓延させようとした噺家の戦略を綿密に分析した。予めハンドアウトとして原稿そのものを配布したパネラーの戦略は後続の二人のパネラーのそれとは際立って異なるものであった。
斎藤 喬
松本由起子氏(札幌大学)の「忘れまいとすること――19世紀における喪の拡大とリビドー領域の関係を「燃える子供の夢」の解釈から考える」は、フロイトが解釈し、さらにラカンその他の持続的な関心を呼び寄せてきた短い夢を、認知心理学における「アウェアーネスの遅れ」や「機能現象」という概念を導入して、フロイトが到達することがなかった地点ですっきり解釈して見せた。死者を悼むことが日常生活の中に浸透した19世紀の人々の、死者の忘却を恐れ、喪を永く生きようとする心性は「空隙恐怖」のひとつの形態であり、それがこの夢の中に現れたとする。病死したばかりの子供の通夜を老人に委ね、疲れ果ててまどろむ父親が見る夢とは、最初の「喪の作業」であるが、フロイトがこの夢を採話した妙な経緯と、『夢判断』の最終章でその夢思想を容易に解釈しつつも6度も触れることになるその経緯の不思議な関係について、死とホラーを絡めて解釈して欲しかった。
松本 由起子
石岡良治氏(大妻女子大学)は「楳図かずおとホラーの目撃者――主人公の不死性と可死性をめぐって」と題して、楳図の「恐怖マンガ」(短編及び『猫目小僧』『おろち』『イアラ』 のような連作長編)における恐怖表現のコマの数々をエネルギッシュに駆け巡りながら分析した。「生理的恐怖」から「心理的恐怖」へ、さらに本質的な恐怖を創造しようとする漫画家の戦略の中心を、物語の主人公たちにしばしば「ホラーの目撃者」すなわち語り手の性格を帯びさせる((主人公=、<、>語り手))点に見て、(登場人物たちにとっての)現実世界が自己の語りでは統御不可能な出来事が生起し、自己崩壊の危機に瀕する世界と化していく様を語る。読者は、このような予測不可能な人生を生きる物語存在(不死の主人公と可死の登場人物)とともに不意を突かれ、最終的に「死」に接近しつつ、ホラーを体験してしまうことになる。
石岡 良治
会場には多くの参加者がつめかけたのは、本パネルのテーマに対する関心の高さのせいであったか、あるいは怪談噺と夢と漫画という物語媒体に対する興味のせいであったのか分からないが、パネラーそれぞれが発揮したパフォーマンス豊かな口演振りが会場に熱気をかもし出していたかのようであったし、発表後のパネラー同士のやり取りも充実していた。ただ、司会兼コメンテーターの力不足のゆえか、時間構成に破綻をきたして会場とパネラーとの熱い質疑の時間が持てなかった点が悔やまれると同時に、発表内容が本パネルのテーマ(喪とホラー)へ十分に収斂していく展開となっていたかという点ではやや難があると思われたが、<表象>を正面に見据えたパネルであった点に救いがあった。
齊藤征雄(東北大学)
パネル概要
本パネルは、登場人物の誰かが葬送されることになる「喪の物語」と、その体験の瞬間において惹き起こされるかもしれない「死」にまつわる情動(のようなもの)について考察するものである。例えば『テクストの快楽』のロラン・バルトは、ポオの短編小説である「ヴァルドマアル氏の病床の真相」における「先延ばしされた死」の挿話を、この延命は耐え難いと言いながら、ステレオタイプに対する吐き気とともに紹介している。特に、ヴァルドマアル氏は臨終の間際にあり、催眠術を掛けられていることによってその死が無期限に先延ばしされているという事態に注目しよう。ここで言う吐き気とは、もうすでに死んでいるにも関わらず未だに死ぬことができずにいるその待ち時間において、胃から喉元に込み上げて来ている汚物の感覚である。
ここでは、このような吐き気をとりあえず「ホラー」(あるいは「おぞましさ」)と呼ぶことにして、その上でこれを「喪の物語」における登場人物の「死」との関連において探究する。各発表は、ある具体的な作品を通して、極めて告白し難いこの「ホラー」の感じを報告しようとする。しかしながら、情動(のようなもの)を口にする時、人は否応なくステレオタイプ化された体験談を語ってしまうことにもなりかねない。それでは、語られた「死」を葬りつつ、体験談に抗いつつ、「ホラー」について語ることはいかにして可能であろうか。(パネル構成:斎藤喬)
「圓朝の幽霊、あるいは怪談噺の粘着性について」
斎藤喬
初代三遊亭圓朝(1839〜1900)は、幕末から明治にかけて活躍した噺家である。今日においてなお「大圓朝」、「落語の神様」、「近代落語の租」などと呼び習わされることからも、その神話的なエピソードの雰囲気が窺い知れることだろう。広く知られた怪談四篇の他にも、「塩原多助」を始めとして「文七元結」、「鰍沢」、「黄金餅」、「死神」など、圓朝作とされる人情噺、落語の類は相当数に上るのだが、ここでは特に「牡丹燈籠」とともに怪談噺の代表作として知られる「累ヶ淵」を中心に考察を進める。「真景累ヶ淵」は、圓朝の幽霊談義を含むこともあってか屡々研究者によって取り沙汰される噺である。しかしながらこれまでの圓朝研究は当の記述が噺家の口演速記であるということをあまり重視せずに、その幽霊像を文明開化と当時流行の「神経病」に結び付けて、圓朝の時代性を考証することが多かったと言えるだろう。言うまでもなく、見世物としての怪談噺の眼目は怖がらせる語りをもって幽霊の話を聞かせるところにある。圓朝の神話化された名人芸を今日の私たちが味わうことはできないが、幸運にして「累ヶ淵」は現代まで演者に事欠くことがなかったため口演として耳にすることは可能である。本発表の目的は、語り手圓朝が示唆する「粘着性」をキーワードに、死んだはずの登場人物を表象する、怖がらせる語りとしての怪談噺の系譜を作者圓朝の速記から辿ることにある。
1966年に出版され占領史研究の中では基本文献である『マッカーサーレポート』は、寺内の《御前会議》以外にも、日本人によって描かれた戦争画が大量に掲載されているが、日本の戦争画研究でこれまで言及されることはなかった。本発表では『マッカーサーレポート』の表象空間を分析して寺内の絵画を歴史的に位置づける。その後寺内の絵画がプライベートな絵画として不可視化・忘却される一方、白川の御前会議が日本国家の公的記録として表象されていく過程と痕跡をたどる。
「死の(代理)表象の造作――「燃える子供」の夢の解釈例から」
松本由起子
病死した子供の遺体を囲んで蝋燭が灯され、年寄りが番をしている。父親は隣の部屋で寝ている。と、子供がベッドの横に立っていて、腕をつかみとがめるようにささやく。「お父さん、僕が燃えているのが見えないの?」 目覚めて隣室の光に駆け付けると番人は眠りこけ、倒れた蝋燭で遺体の衣と腕が焦げていた。この有名な夢はフロイトが患者から伝え聞いたもので、患者も夢に関する講議で聞いており、出所は不明。患者は自らこの夢を見るに及び、フロイトは『夢判断』最終章を、印象深くはあるが展開上必然性の薄いこの夢ではじめ、以来、これは繰り返し解釈されてきた。この夢は現実の刺激(隣室からの光)+認識されていた危険(高齢者+蝋燭)から引き出された推論(遺体が燃えているのではないか)を「変更せずに繰り返す」もので、「願望充足の演じる役割が異常に従属的」である。火がついてすらもはや動くことのない存在に出会えるとしたら、どんな出会いでありうるかとラカンは問い、現実を借用するこの夢に現実界との出会いそこねを見る。それは、死の表象は可能かという問いへの答になっている。たとえ同じ燃える子供でも、これが「お父さん、熱いよ」なら、これほど多くの解釈を招きはしない。ここではラカン他の解釈例を、現実と願望の時間的関係、呼び起こす問いかけ、出所不明、夢の聞き手の位置に注目して検討し、解釈を呼び起こし続ける死の(代理)表象の造作を探る。
「楳図かずおとホラーの目撃者――主人公の不死性と可死性をめぐって」
石岡良治
齋藤 征雄