新刊紹介 |
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乗松 亨平・畠山 宗明(共訳)
ミハイル・ヤンポリスキー『隠喩・神話・事実性――ミハイル・ヤンポリスキー日本講演集』
水声社、2007年05月
あるテクストが、書き手や主題が属している地域性を超え、ある普遍的な空間に訴えようとするとき、そこでは主題的なシフトのみならず、読解コードのシフトや意味論的な切断もまた生じている。ド・マンやデリダの影響のもと、こうした際には言語の言語性が剥き出しになると見なされてきた。しかし、ミハイル・ヤンポリスキーはそれを思い切って「身体」と呼ぶ。
本書は、二〇〇六年の表象文化論学会第一回大会に来日したヤンポリスキーの、学会での基調報告を含めた日本での講演をまとめたものである。その他に、ヤンポリスキーへのインタビューおよび招聘に関わった研究者たちによる討論が付されている。
ヤンポリスキーの著作としてはすでに『デーモンと迷宮』の翻訳が出版されているが、本書において展開されるのも『デーモンと迷宮』と同じく「身体のデフォルメ」というテーマである。ここで扱われているのはシクロフスキーの小説『Zoo』、ヴォルフに端を発する「哲学の文献学化」というプロジェクト、エイゼンシュテインの『イワン雷帝』という一見バラバラな題材であるが、そこには「身体」という大きな主題が横たわっている。
ここで言われている身体とは、テクストの外部に担保されている神学的な特異点ではない。それは、テクストの切断や、不意に現れる読解コードの変容、あるいは語り手の盲目性を契機として現れる、歪みそのものであるような書き込みの形式である。
ドゥルーズやアガンベンを参照しながら、身体という特異点にもド・マン的な言語的機械の作動にも帰着しない身体を探求するヤンポリスキーのテクストは、時に晦渋であり、該博な知識の動員は、議論を時に見失わせることさえある。しかし、ロシアの作家や思想と西洋のそれとを一挙に接続する際に現れるテクストの捻れと速度は、それ自体「歪み」として現れる一つの身体なのであり、彼のテクストそのものが身体空間としての「迷宮」を抱えている。
私たちは残念ながら、世界史的な思想の発信地に居るわけではない。そうした場所で生じる「超克」の問題にはいやと言うほど直面しているが、ヤンポリスキーは速度と文献学的な知をもって事に当たる(そうした意味では「哲学の文献学化」とは、ヤンポリスキー自身の「方法序説」なのかも知れない)。ヤンポリスキーは、超克の試みに必然的に付随する錯覚と幻影を、意図的に方法論に仕立て上げようとしているかのようだ。そこでは事物や言語ではなく、幻想そのものが剥き出しの姿を現す。このようなアプローチをどのように評価するにせよ、彼のテクストは否応なしに私たちが直面している問題を浮き彫りにする。ヤンポリスキーが裸にするもの、それは私たちが人文知と呼び習わしてきたものの、想像的な核なのである。(畠山宗明)