新刊紹介

Yoshiyuki Sato
Pouvoir et Résistance : Foucault, Deleuze, Derrida, Althusser
L'Harmattan、2007年05月

主体とは「構造」の効果でしかないという「クール」な認識が、存在や行為のエージェンシーとしての主体という「ホット」で「モダン」な了解に決定的な仕方でとってかわったのは、思想史上の出来事としてはほぼ1960年代以降ということになるだろう。ようするに構造主義である。ここで「構造」とは、周知のとおり「言語」によってモデル化されたり「交換の体系」として規定されたりもするわけだが、本書で筆者はそこのところを端的に「権力(pouvoir)」とよぶ。このとき、すぐさま、主体とは権力の内面化(権力に対する従属化としての主体化――フランス語ではこれをassujetissementというひとつの単語で表現することができる)であるという命題が導かれるだろう。もちろん、これもやはり構造主義である。

本書は、「抵抗(résistance)」の概念を導入することによって、そうした理論的展開のナイーブさからきっぱりと訣別し、まったく別の地点に向かおうとしている(はなはだ勝手な比較をお許しいただけるなら、たとえば最近の大衆文化研究において、商業資本のイメージ操作に対する観客の側での創造的再解釈とでもいうべき局面が注目されていることとも、これはひとまず――あくまでもひとまず、パラレルな関係にあるといえるのではかろうか)。しかし、本書において「抵抗」とは、たとえば『構造と力』――来年で刊行25周年!――というときの「力」というよりは、むしろ「単独性」の発現や「偶然性」の介入ときわめて親和的であるということにきちんと注意しておくべきだろう。

それだけではない。本書は、そうした権力/構造に対する「抵抗」の契機を、構造主義の言説それ自体のなかからとりだしてくる。実際、副題に掲げられた4つの固有名詞、すなわちフーコー、ドゥルーズ、デリダ、そしてアルチュセールのうち、かつてジャーナリズムが「構造主義四天皇」などと喧伝した思想家が2人も含まれている。エチエンヌ・バリバールの序文と参考文献をあわせて250ページほどの、日本人によるフランス語の本格的な著作である。(竹内孝宏)