第4回研究発表集会報告 研究発表 6

研究発表6

2009年11月14日(土) 13:30-16:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム3

研究発表6:光・ことば・身体 ── イメージの溶解

形態と不定形 ── 『ドキュマン』における写真イメージのふたつの系
井上康彦(東京芸術大学)

イリヤ・カバコフ作品におけるテクストの役割について
── 〈アルバム〉と絵本挿画の関わりを手がかりとして
藤田瑞穂(大阪大学)

不在の自画像 ── ピエール・ボナール《逆光の裸婦》(1908)
横山由季子(東京大学/世田谷美術館)

写真と想像力 ── H・P・ロビンソンの写真論の展開
調文明(東京大学)

【司会】小林康夫(東京大学)

本研究発表「光・ことば・身体—イメージの溶解」では、小林康夫氏の司会のもと、井上康彦(東京芸術大学)、藤田瑞穂氏(大阪大学)、横山由季子氏(東京大学/世田谷美術館)、調文明氏(東京大学/日本学術振興会)の発表が行なわれた。

井上康彦の発表「形態と不定形—『ドキュマン』における写真イメージのふたつの系」では、ディディ=ユベルマンやロザリンド・クラウスによって美術史の文脈で読み替えられてきた、バタイユの「不定形な(アンフォルム)」という語が持つ作用を、写真固有の問題へ接続しようと試みた。ユベルマンが「アンフォルム」の好個の例として取り上げるエイゼンシュテインのモンタージュがもたらす作用は、各々のイメージが差異を際立たせながら衝突することによって観者のうちに新たなイメージを生み出す運動であり、クラウスが「アンフォルム」の写真イメージとして提出するマン・レイの《解剖》は、クローズアップと切断によって、被写体をスタティックな意味には還元できない多様な可読性を孕んだ形態に変容させたものである。以上の「アンフォルム」論を、『ドキュマン』の原テクストと挿入された写真イメージとの比較から辿った。
司会の小林氏からは、ユベルマンとクラウスの議論の整理としては理解できたが、発表者の立場が明確にされなかったとの指摘があった。

藤田瑞穂氏による「イリヤ・カバコフ作品におけるテクストの役割について―〈アルバム〉と絵本挿画の関わりを手掛かりとして」では、カバコフの作品群が常に「物語性」に貫かれていることを指摘した上で、この「物語性」をソビエト時代にカバコフが手掛けていた絵本挿画からの連続性において考察することの必要性が示唆された。とりわけ〈アルバム〉なる形式で作り出される作品空間は、複数のイメージとテクストで織りなされており、各々の要素が調和することによって、鑑賞者のうちに「物語」が醸成される。ここで言う「物語」とは、「作者」が特権的な位置から発するメッセージといった類いのものではなく、鑑賞者が頁をめくることによって、個々の鑑賞者の時間のなかで生成される個別的な経験だと言えよう。こうした、作品と鑑賞者の相互関係によって生じる「物語」の生成過程が、絵本の形式と相即するのであり、絵本挿画に携わった経験がカバコフの作品制作の源泉となっていると藤田氏は結論づけた。
小林氏からは、〈アルバム〉自体のディスクリプションが必要なのではないかという指摘がなされた。

横山由季子氏の「不在の自画像—ピエール・ボナール《逆光の裸婦》(1908)」と題された発表では、知覚心理学に基づくボナールの作品分析では見落とされてしまう、描写対象が持つアフォーダンス作用の重要性を指摘した上で、生態光学の理論を援用しながら、光学的肌理をもつ面がアフォードする情報と、画家の身体との相互関係において《逆光の裸婦》の分析が試みられた。横山氏は、このタブローには画家自身の姿は表象されていないものの、画面周縁部に残された曖昧なタッチのうちに画家の身体が遮蔽した盲点が露呈しており、この盲点こそが、描写対象がアフォードする情報に画家の身体が反応した痕跡にほかならず、このタブローを「不在の自画像」として捉えることが可能である、と結論付けた。
横山氏には、多くのコメントが寄せられた。とりわけ、「生態光学は広い射程を持つものであり、ボナール固有の問題として取り扱うことが可能なのか」という会場からの問いは、重要なものとなったであろう。

調文明氏の発表「H・P・ロビンソンの写真論の展開」は、イギリスの写真家H・P・ロビンソンによる「写真と想像力」の問題について問い直すものとなった。写真が芸術となり得るのか否かが論争の的となっていた19世紀末には、芸術の専有物として「想像力」が考えられた。調氏は、写真を芸術として考えるロビンソンの「想像力」への姿勢が、初期から後期に至る過程でどのように変遷していったかを、ロビンソンの記述をていねいに辿ることで明らかにした。「想像力」を、「そうあるべきもの」を追求する力として捉えていた初期の姿勢においては、写真は絵画の基準によって評定され、絵画の模倣でしかなかったが、後期ロビンソンは「想像力」を未知のものに対して開かれる創造の可能性として捉えることによって、写真独自の基準を見出すに至った。このロビンソンの写真に対する思考法の変遷は、彼の個人史的な「転向」を示しているだけでなく、写真に対する一般認識の変容として捉えることも出来るだろう。
小林氏と調氏のあいだで、「そうあるべき」という基準の根拠について質疑応答が交わされた。

以上は独立した個人発表であるが、結果としてどの発表も「光・ことば・身体」と題されたこのセッションに相応しい問題を取り扱ったものとなった。限られた時間のなかで十分な質疑応答が行なわれたとは言い難いが(とりわけ発表者の応答が)、司会の小林氏と会場から発せられたコメントや問題提起は、各々の発表に新たな視座を準備させるものとなったはずである。

井上康彦(東京芸術大学)

【発表概要】

形態と不定形 ── 『ドキュマン』における写真イメージのふたつの系
井上康彦(東京芸術大学)

本発表の目的は、ジョルジュ・バタイユが『ドキュマン』(1929-1930)で展開した「形態(forme)/不定形(informe)」の対概念が、いかなる写真イメージによって例証されているのかを検討し、写真読解の二重性を示すことにある。

「形態」に対する「不定形」とは、何ものにも類似していない「無形態」ではなく(ディディ=ユベルマン)、「形態の侵犯」として(ドゥニ・オリエ)、形態を「内側から侵食する」パフォーマティヴな作用(クラウス)であるとひとまずは言えよう。さて、「不定形」に対応するイメージとして、たとえば「花言葉」(『ドキュマン』n°3)のブロースフェルト撮影の花の拡大写真や「足の親指」(n°6)のボワファールの写真がある。前者においては、雌蕊に密生した軟毛、後者には爪の凹凸や皺など、理想的な形態には還元できない細部が写り込んでおり、それが「形態の侵犯」として機能していると見做すことができる。また逆に、ここで問題となる「形態」がいかなるものであったかは、「自然の逸脱」(n°2)で批判的に言及されるゴルトンの「合成肖像」や、「人間の形象」(n°4)に挿入されたナダール撮影の肖像写真を検証することで明らかにできるはずである。以上の読解によって、『ドキュマン』から採り出せる写真イメージのふたつの系を、あらゆる写真に施しうる読解の可能性として提示することが、本発表の最終的な目的となる。

イリヤ・カバコフ作品におけるテクストの役割について
── 〈アルバム〉と絵本挿画の関わりを手がかりとして
藤田瑞穂(大阪大学)

イリヤ・カバコフ(1933〜)の作品には、必ず物語がつきまとう。ソビエト時代に製作された〈アルバム〉形式の作品はもちろん、ロシアを出た後、世界中で発表された〈トータル・インスタレーション〉作品の数々においても、絵画、オブジェは物語性を孕んだものであり、また膨大な量のテクストがそこには添えられている。一般的に美術作品としてカテゴライズされるカバコフの諸作品だが、カバコフは何故物語性に、テクストにこだわって制作を続けているのか。それを探る手がかりのひとつとして挙げられるのが、カバコフがそのソビエト時代、生計を立てるために、1957年から1987年の30年もの間従事してきた絵本の挿画の仕事である。これだけ長い間、膨大な量の作品が手がけられていたにも拘らず、最近までこの挿画については、日本においてカバコフの絵本挿画について本格的に紹介した鴻野わか菜氏が指摘する通り、ほとんど注目されてこなかった。そこで本稿では、カバコフ作品におけるテクストの役割について、絵本の挿画の仕事との関わりに注目しながら考察を試みたい。なお、具体的なカバコフ作品としては、絵本の仕事と同時代に制作されたこと、またそれと深い関わりを持つと考えられる〈アルバム〉について取り上げたい。

不在の自画像 ── ピエール・ボナール《逆光の裸婦》(1908)
横山由季子(東京大学/世田谷美術館)

ボナールの画業前半の代表作《逆光の裸婦》(1908)には、「部屋に入ったとき突然目に飛び込んでくるものを描く」という、絵画制作に際しての画家の意図が画面全体に反映されている。対象が名づけられ、意味を与えられるという認識プロセスの手前にある状態の絵画化が試みられたこの室内画を読み解くことで、知覚のために組織される画家ボナールの身体を浮き彫りにしたい。

まず、生態心理学の理論を参照しながら、作品の絵画空間について分析する。窓、鏡、水の張られた浴盤といったモチーフは、その透過性と反射性によって、一点透視図法に基づく秩序を解体し、描かれた空間を混沌とした奥行きへと変貌させている。同時に、窓から侵入して空気中で散乱する光、すなわち包囲光を通して見るモチーフの輪郭線やフォルムは溶解しつつあり、視覚的な要素のみでその存在を確認することは難しい。このように対象間の距離や関係性が曖昧な絵画空間においては、カンヴァスの前に立って描く画家の身体を通して、観者が能動的に対象を知覚することが要求されるだろう。こうした考察をふまえて、画面の中心に堂々と佇む画家の妻マルトと、鏡の中に描かれた「恥じらいのヴィーナス」のポーズをとった裸体の関係についても考察する。

以上の分析をもとに、画家自身の姿が描かれていないにもかかわらず、その身体感覚が絵画空間の中に内在化されているという点において、この作品を「不在の自画像」として位置付けることを試みたい。

写真と想像力 ── H・P・ロビンソンの写真論の展開
調文明(東京大学)

19世紀後半、写真が登場して間もなく、写真を芸術へと格上げさせようとする動きがイギリスやフランスなどで活発化したが、その中でもイギリスの写真家ヘンリー・ピーチ・ロビンソンは美術批評家ジョン・ラスキンの『近代画家論』や画家ジョシュア・レノルズの絵画論などを参照しながら、芸術としての写真を目的とした写真論を展開させ、1869年に『写真における絵画的効果』を発表することとなった。

ロビンソンはその著作のなかで、構図や明暗法、遠近法などの絵画的諸規則を写真論の中に導入し、その諸規則によってラスキンの主張するような「自然の真実性」を達成することで、写真が如何に芸術の域にまで到達し得るかを示そうとした。しかし、その一方で、彼は芸術家にとって非常に重要な能力である想像力に対しては、あまり肯定的な評価を与えていなかった。それは一体どうしてなのか。これが本発表で問うべき第一の問題であり、詩や絵画とは異なる写真特有の問題として想像力を扱ってみたい。更に、ロビンソンは1880年代以降の著作『シルバープリントの技術と実践』(1881年)や『写真による画像制作』(1884年)、『絵画的写真の要素』(1896年)において、今度は一転して想像力に対して肯定的な評価をくだすようになるのだが、こうした「転向」がどのような背景のもとで起こったのかを第二の問題として探っていく予定である。

井上康彦

藤田瑞穂

横山由季子

調文明

小林康夫