第5回大会報告 研究発表 1

パネル1

2010年7月4日(日) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
研究発表1:包含と排除 ── 中世から現代にいたる表象文化の三つのケース

脇役たちの「場なき場」 ── 15世紀フィレンツェの聖史劇より
杉山博昭(日本学術振興会)

救済のポリティクス ── ペスト流行期の《慈悲の聖母》にみられる救われざるものたち
河田淳(日本学術振興会)

二つのメデューズ号 ── ジェリコーとショニバレのあいだ
石谷治寛(龍谷大学)

【コメンテーター/司会】阿部成樹(山形大学)

パネル1「包含と排除 ── 中世から現代にいたる表象文化の三つのケース」では、社会から疎外されている者たちの表象を、タイトルどおり「包含/排除」という対概念から捉えなおす3つの発表がおこなわれた。「包含」と「排除」の対概念は、相反的でもあれば、相補的でもある。排除するためには、まずそれとして名指し、包摂する必要がある。逆に包摂するためには、そこから排除すべきものを確定しなければならない。その両義性が、社会や共同体を形成するための恰好の演算子を提供すると同時に、それらを解体する萌芽を宿してもいる ── このことが、本パネルを構成する3つの発表のなかで繰り返し確認されただろう。

個人的には、社会形成の根源に「暴力」や「スケープゴート」を見るたぐいの議論の延長線上にあるもの、ないし、それを深化させるものとして、いずれの発表も興味深く拝聴した。「包含/排除」の問題は、近年になって日本でも社会科学の分野で知見が深められてきている(ただし社会科学ではおもに「包摂」と「排除」の語がもちいられる)。とはいえ、それを現代的状況だけでなく歴史的文脈にまで投げ返す作業は、いまだほとんど端緒についてもいない。そのなかで、3つの発表はいずれも、「包含(包摂)/排除」の問題を歴史的に遡ろうとする意欲的なものだったように思う。たしかに素材としては、杉山博昭氏の発表はルネサンス・イタリアの演劇、河田淳氏の発表は中世イタリアの絵画、石谷治寛氏の発表は現代イギリスのインスタレーションを扱っており、地域的にも時期的にもやや限定された感は否めない。しかしながら、司会・コメンテーターの阿部成樹氏の丁寧な論点整理、そして木下知威氏や山本明美氏らの積極的な質疑もあって、隣接地域や前後の時代との連関も示唆され、今後のさらなる議論の展開を期待させるパネルだった。それだけに、杉山氏の発表の末尾で触れられた「使徒とユダヤ人との相同性」というひじょうに興味深い論点が、時間の問題もあったとはいえ、その後の質疑応答のなかで深めらることなく終わったのは、個人的に少々残念でもある。

パネル全体を通してとりわけ重要なものと感じたのは、「包含(包摂)」と「排除」が、たんに言説的な操作でもなければ、身体への介入というだけのものでもなく、むしろすぐれてイコノグラフィックな操作だということである。それと分かる衣服を纏った「ユダヤ人」(杉山発表)、庇護すべき人々をくるむ聖母マリアの「マント」(河田発表)、アフリカを象徴するテキスタイルをはためかせた「メデューズ号」(石谷発表) ── こうした図像が、ときに時期や地域を横断しながら多彩な意味を取り集め、「包含(包摂)/排除」という操作を成立させる。そして同時に、この操作を破綻させる契機をも形成する。本パネルの3つの発表のいずれも図像誌の技法を駆使しながら、「包含(包摂)/排除」のパラドクシカルなはたらきを精緻に追跡していたことが、強く印象に残っている。

岡本源太(京都造形芸術大学)

【パネル概要】

2010年に映画の主題ともなった「狼男」とは、本来、法の保護外に置かれるばかりか、文化の埒外にまで追い立てられた悪辣な狼藉者を指し示す名称であった。この事実に注目したアガンベンが示したのは、「動物と人間、ピュシスとノモスのあいだを移ろいゆく閾(ソリア)」としての存在であり、包含と排除のあいだの不分明な境界線としての様相であった。主権がひとつの規範をあまねく適用しようとすれば、その規範が適用されない例外の場が必然的に要請されるのである。では、包含的排除ともいうべき作為的な操作によって生み出されるこの政治的時空は、これまでいかに表象されたのだろうか。

本パネルは、こうした問題意識にのっとって構成される。すなわち、不可能性と可能性、不可視と可視、裁断と縫合が並存するパラドクシカルな場としての表象を、三つの視点から検証する試みである。河田は、中世美術における図像のひとつの類型から、慈悲と庇護を欲する心性が生み出した例外の空間を分析する。杉山は、ルネサンス宗教劇における一連の登場人物に注目し、世俗と宗教というふたつの圏域のあいだをよりしろとする存在を検討する。石谷は、現代芸術において再現されたある近代の神話を通して、「場なき場」へと寄り添うための、戦略的な身振りの可能性を論じる。これら三つの発表の交差から、現在、政治の唯一の賭け金ともなった「生」が未完結な場として立ち上がるだろう。

脇役たちの「場なき場」 ── 15世紀フィレンツェの聖史劇より
杉山博昭(日本学術振興会)

本発表は一五世紀フィレンツェにおける聖史劇の上演台本を取り上げ、そこに現れる「場なき場」の政治的性格を分析する。

旧約や新約、そして聖人伝に範をとり、聖なる出来事を「記念」する聖史劇の各演目は、第一義としてカトリック的表象であった。また同時に、在俗信徒会の会員の「演技」を通して、都市の社会的結合の確認と強化を図るという共同体的表象でもあった。聖史劇のこうした特徴は、たとえばフィレンツェの守護聖人を奉る「洗礼者聖ヨハネのフェスタ」などの上演機会に際だって前景化する。つまり、宗教的圏域と世俗的圏域が折り重なった祝祭の時空に、聖史劇は展開したのである。

しかし、予言と成就の物語を紡ぐ上演台本のテクスト、詩節やト書きの記述を精査すると、このふたつの圏域からこぼれ落ちる存在が浮かび上がる。それは、主だった登場人物のすぐ脇に配された百人隊長、異教神、レプラ患者、そしてユダヤ教徒たちである。祝祭の時空という「あべこべの世界」にあるにもかかわらず、日常で被りつづけた疎外になおも囚われる脇役たちの表象は、「記念」と「演技」のいずれからも排除/包含される場の座標を指し示す。つまり聖史劇の舞台上において、「場なき場」に立ちつくしたユダヤ教徒たちは、一五世紀の宗教的圏域と世俗的圏域のそれぞれの臨界点を構成し、ふたつの圏域を並存せしめた点において、優れて政治的な機能を帯びていたと言えるのである。

救済のポリティクス
── ペスト流行期の《慈悲の聖母》にみられる救われざるものたち
河田淳(日本学術振興会)

中世やルネサンスの造形作品には、現世の生や死後の魂が安らかに過ごせることを保証されたいという、安心や安全に対するひとびとの欲求をみることができる。このようにいくつかの作品から当時の心性を分析したのは、アナール学派第三世代に位置づけられるジャン・ドリュモーであった。本発表では、このドリュモーが安心・安全を求める心性に裏打ちされた図像として触れた《慈悲の聖母 madonna della misericordia》を取り上げ、とりわけペスト流行期にみられる、この図像の一類型を考察する。

この図像は、両手でマントを広げて左右に跪く信徒たちを囲い込み、庇護を与える慈悲深い聖母の姿を表わしたもので、十三世紀ごろからイタリア、フランスを中心に幅広く用いられてきた。また、ヨーロッパ各地でペストが流行した時期には、神の母たるマリアの慈悲は「神罰」であるペストをも退けうると考えられたことから、≪慈悲の聖母≫図像はペスト除け機能をもつものとも考えられた。この時期に制作された作品のなかには、庇護のマントのなかで守られる人々と対照的に、息途絶えた人々をマントの外に配するタイプがみられる。これは、マントの内側の安全性を強調するために、その外側をより脅威に満ちた空間として演出する必要があったからと考えられる。さらには、マントの内側であっても人物の位置や大きさに一様でないのは、慈悲を受ける序列が表わされているからと捉えることができる。

このように、安心・安全を求めて制作された「慈悲」という名を冠した図像にも、包含と排除、さらにはその二項だけでは論じきれない権力構造のグラデーションが介在しているといえるだろう。

二つのメデューズ号 ——ジェリコーとショニバレのあいだ
石谷治寛(龍谷大学)

イギリス生まれのナイジェリア系アーティストのインカ・ショニバレMBEは、個展「プロスペロ―の怪物」(2008年)で、《ラ・メデューズ》と題され彫刻と写真で構成された二作品を発表している。これは、啓蒙時代の著述家の形象とゴヤの素描の活人写真とともに展示されて、近代芸術を独特の衣装で着せ替える試みとなっている。だが、なぜ「メデューズ号」なのだろうか。西欧からアフリカに向かう途上で座礁した新聞の三面記事の事件は、ジェリコーの大作によって近代の神話へと高められた。というのも、この表象は、主題の面でも、それが芸術界に拒絶され受容されるプロセスにおいても、「包含と排除」の近代的パラドックスをこれ以上ないほどに具現化していたからである。

本発表では、「メデューズ号」をめぐる美術史研究と現代アーティストの戦略との視差を通して近代の神話を再考する。ロココや近代の表象の再解釈に取り組むショニバレはその「たわいなさ[Frivolity]と陽気さ[playfulness]」に着目する。これは、ジャック・デリダによって試みられた古典主義から近代へと移行する人文学の脱構築的な読解に対応している。二つの「メデューズ号」をめぐる解釈のゲームは、現代のグローバル化を可能にしている知の空間の起源へと遡り、反復し、分析し、交易し、縫合し、裂け目を開き、そして「解体のためのスイッチ」として作動しはじめるだろう。

杉山博昭

河田淳

石谷治寛

阿部成樹