第4回研究発表集会報告 研究発表 1

研究発表1

2009年11月14日(土) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1

研究発表1:文学の受容と形式

水村美苗『私小説』における消去される一人称性
小田桐拓志(スタンフォード大学)

こと・わざ繁き現への内在──近代の古今和歌集受容を暦から再考する
串田純一(東京大学)

英詩の視線──寄せては返す、時空とこころ
松本舞(広島大学)

【司会】中村ともえ(日本大学)

小田桐拓志氏は、自己言及的に表れる「書く私」と以降の作中人物としての「書かれる私」が分裂するという小説の基本的特性が水村美苗の『私小説』においても生じていることを示した上で、これをポール・ドマンの言う言語の多義性に基づくアレゴリーの一つの表れと特徴付ける。しかし、ドマンがあくまで記号の意味の多様性の次元に留ったの二対して、日本語と英語を併記する『私小説』は、言語記号の物質性とそれが意味から漏れてゆく様を暴露することで、単に文化的多様性などといった形で「語る」ことはできない次元を開示しているのである。

串田純一は先ず、古今集時代の太陽太陰暦がいかに複雑で高度な技術的・政治的構築物であるかを説明した上で、正岡子規以来近代において古今集の水準の低さを象徴するとされた冒頭の「年内立春」の歌が実はこうした暦への根本的な訝しみを表明したものであるとした。そしてこれ以降の歌群は、確かな尺度を欠いた地上の諸現象の只中で互いに遅れ先立つ「こと・わざ」たちに処してゆく一つの実存様式を提示するものであり、近代日本の思想・文学はこの「差異の内に留まること」の意義と可能性を捉え損ねてきた、と述べた。

松本舞氏は、或る青年に贈られたとされるシェイクスピアのソネット第24番を中心に取り上げ、それがフレーミングやパースペクティヴ、アナモルフォーズといった絵画的な概念を恋愛関係の描写と比喩に用いていることを指摘した。そしてそれによって、詩人の目と体および恋人の体と心の間に複雑で変形性に富んだ光学的関係が描き出され高い詩的効果を挙げると同時に、肉感性や(ダーク・レディを含む)三角関係の暗示を通して、プラトニック・ラヴや純白の貴婦人といった中世以来の宮廷風恋愛とそれに伴う伝統的表象への挑戦ともなっている、ということが示された。

以上の諸発表から垣間見えるのは、芸術作品を分析・読解するために必須の「歴史的文脈」そのものの不確定性であり、あらゆる解釈それ自身が或る歴史的な決断を避けることはできないということであるが、まさに決断を決断であらしめつつもなおそこに反復可能な不確かさ(国学者・歌学者の富士谷御杖はこれを「言霊」と呼んだ)を留め置くということこそが、文学に賭けられた願いにほかならないのだろう。

串田純一(東京大学)

【発表概要】

水村美苗『私小説』における消去される一人称性
小田桐拓志(スタンフォード大学)

水村美苗の『日本近代文学 私小説from left to right』についてはすでに国内海外双方において多くの先行研究があるが、そのほとんどは、ディアスポラ、ポストコロニアル、越境文学といった一連の批評概念によってこの小説を論じている。しかし、『私小説』の実際のテキストは、写真、カリグラム、対句構造、リフレイン、日英両言語による横書きテキスト等、全体としてその視覚的効果や体裁を重視した構成になっている。そうした繊細な視覚性(形式、スタイル)とこの小説物語の(いわゆる「越境文学」としての)主題性(内容)とはどのように関連するのか。本稿では、水村の恩師でもあるポール・ド・マンのアレゴリー理論を手がかりに、内容と形式の両面を含めて、この小説の言語表現の総体をどのように理解すべきかについて考察する。『私小説』における書く主体としての一人称“I”は、小説の冒頭において明瞭に現れていながら、その後の私語りの始まりと共にその存在を消去されている。このように消去される一人称は、実は『私小説』全体の主題性とも密接に関わっている。総体として、『私小説』テキストは、一方でド・マンのアレゴリー理論に依拠しながら、他方でそれを批評的に乗り越えているとも言える表現の次元をも確立している。水村の小説テキストとそれ以外の資料の双方に依拠しながら、『私小説』の視覚表現の意味を考察する。

こと・わざ繁き現への内在
──近代の古今和歌集受容を暦から再考する
串田純一(東京大学)

正岡子規による称揚以来、近代日本文学は万葉集を最高の古典とみなし、またしばしば実作の模範ともしてきた。こうした態度が所謂「文学的・美学的」問題と並んで国民国家形成という時代の要請に強く規定されていたということは近年広く認識されつつあるが(品田悦一『万葉集の発明』等を参照)、他方、この万葉の対照項として極めて低い評価を与えられたのが古今和歌集であり、それは現在も(例えば源氏物語の流通ぶりと比較して)むしろ端的な無関心の淵に沈んだままだと言ってよい。特に、その最初に置かれた在原元方による年内立春の歌は、暦に関する単なる「知識」を弄ぶ「集中の最も愚劣な歌」(和辻哲郎)とさえ言われ、それがまた古今集全体の性格と水準の低さを代表するかのようにも語られてきた。しかし、子規以降半ば常識化したこうした理解は、暦というものの技術的・政治的さらには形而上学的本性とそれらを前にしたこの集の「選択」を全く見落としていると言わねばならない。そしてこの見落としは、例えば和辻ら近代日本思想の全体論的性格という問題とも通底しているのである。本発表では、古今集時代に輸入された宣明暦の具体的構造と、日本の朝廷が800年以上に渡ってそれを使い続けたという事実の持つ意味を踏まえ、古今集春歌冒頭の数首を再解釈することで、近代を通して覆蔵されてきたこの歌集の古くて新しい可能性の開示を試みる。

英詩の視線──寄せては返す、時空とこころ
松本舞(広島大学)

本発表は、ルネサンス期の恋愛詩において、反復の技法が、語り手の視線や空間に作用するものとして機能していたことを提示する試みである。

ルネサンス期までに形成された詩の技法として、‘Song’と‘Sonnet’の形式が挙げられるだろう。今回の発表では、まず、 ‘Song’の例として、Thomas Campion (1567-1620) の詩を取り上げ、一定のフレーズの繰り返しが、リズム感や余韻を与えるだけでなく、語り手の視線に距離感を生み出すことを提示する。一方、‘Sonnet’の例として、Sir Philip Sidney (1554-86) の詩を考察し、恋に悩む語り手の未練や葛藤が、語の反復として表現されていること、さらには、このような狂気的なリフレインが、眼で撫でることを繰り返すような手法となっていることを検証する。シドニーが用いた反復の技法に、だまし絵のような仕掛けを与えたのが、William Shakespeare (1564-1616) である。シェイクスピアは、ソネット24番の中で、同じ語を繰り返し用いることで、覗き穴やからくり箱の要素を仕掛け、視線を操作させることに成功している。このような視線の操作は何を意味するのだろうか。本発表では、Timothy Bright (1594-1615)のA Treatise of Melancholy (1586) や Andre Du Laurens (1558-1609) のA Discourse of the Preservation of the Sight (1599) などの出版により、恋のメランコリーと眼の病が医学的に関連付けられていた状況を踏まえ、恋に悩む詩人たちにとって、恋愛詩を書くこと自体が、恋の病に対する一種の処方箋となっていたことを考察する。即ち、語数や行数が限定されたソネット形式そのものが、宮廷風恋愛という、制限された愛のかたちと重なるのではないか。そして、詩という枠組みの中の「反復」という装置こそが、恋のメランコリーの治療のために編み出された仕掛けとなっているのではないだろうか。

反復という修辞技法が、恋の病の治療法となるという観点から論じたまとまった研究はこれまでにないが、反復が生み出す視線に注目することで、ルネサンス期の恋愛詩を理解するための新たな視点を提示したいと考えている。

小田桐拓志

串田純一

松本舞

中村ともえ