第4回研究発表集会報告 | 研究発表 2 |
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2009年11月14日(土) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2
研究発表1:存在・贈与・一般意志 ── 出来事のエティック/レトリック
ハイデガー批判としてのアーレントの存在論
── アーレント『精神の生活』三部作における『カント政治哲学の講義』の位置づけ
溝口万子(立命館大学)
J.-J. ルソーの道徳論から見た「一般意志」
飯田賢穂(東京大学)
贈与、誇張、崇高 ── ミシェル・ドゥギーの崇高論
星野太(東京大学)
【司会】宮﨑裕助(新潟大学)
本報告は、2009年11月14日(土)、東京大学駒場キャンパスで開催された表象文化論学会第4回研究集会の中の研究発表2に関するものである。以下では、溝口万子氏、飯田賢穂氏、星野太氏の順にその発表内容を示し、最後に三者の共通テーマを示すこととする。
溝口氏は、H・アーレントが論じた『永遠平和のために』というカントの著作名の由来(あるオランダ人が自分の宿屋に付けた名前で「共同墓地」を意味する)を分析し、その分析から崇高の経験をめぐるアーレントの特異な議論を抽出した。具体的には、宿屋の主人が「飲み物」を人々に与えつつ「共同墓地」へと連れていく、という同書名の由来をめぐる寓話を、カントの特に『判断力批判』に基づきつつ解釈した。
先ず溝口氏は、アーレントの対立項としてハイデッガーの存在論を提示した(「道具的存在者」に「予視」を通して関わる人間=「現存在」の関係論)。ハイデッガーが『純粋理性批判』を集中的に扱いつつカントを評価するのに対し、アーレントは『精神の生活』の中に含まれる『カント政治哲学の講義』の中で『判断力批判』、特にその「構想力」論を重視する。この重視の意図は、アーレントが臭覚と味覚という、ハイデッガーの視覚重視とは異なる立場をとろうとする点にある。溝口氏の主張では、臭覚と味覚は言語による表象が不可能なものであり、それはカントの戦争論に見られる「矛盾」(アンチノミー)の表象不可能性と結びついている。カントは、フランス革命を含む独自の戦争論の中で、現象としての戦争は人類の進歩に貢献し得るという点で肯定的に評価できるが(=A)、行為としての戦争は道徳法則に違反するものであり非難の対象となる(=~A)という実践理性が起こす「矛盾」(A=~A)を示す。ちなみに、この「矛盾」した状態を一個人の中で可能にするのが「拡大された心性(enlarged mentality)」(「構想力」を以て個人があらゆる立場に身を置くことが可能になる「心性」)である。戦争をめぐる矛盾は表象不可能性という点で臭覚と味覚と一致し、それゆえに、この「矛盾」をめぐる判断は言語ではなく「快」・「不快」に関わる「趣味(Geschmack)」の対象となる。戦争やそれに類するものによって起こる崇高の経験は、「嘔吐を催させる醜(disgust)」として個人にそれを「味わう」べく突き付けられる。これを判断することができるのは「趣味判断」であるが、先の宿屋の主人が個人に与える「共同墓地」へと導く「飲み物」とは、この崇高の経験へと個人をいざなう契機である。そして、溝口氏によれば、アーレントが『カント政治哲学の講義』を中心として示した崇高論とは、読者をこの崇高の経験を「味わわせる」ものである。
続く、飯田氏の発表の目的は、「一般意志」は、個人が「自分自身と対立すること」によってはじめて成立することの妥当性を示すことである。
飯田氏は、先ずルソーの道徳論の基礎が「自分自身との対立」として把握できることを示し、アーレントの「意志」と「対立意志」の議論を援用しつつ、二つの相反する意志の対立を検討した。この対立は、個人にどちらかの意志を善として、他方を悪として判断し選択することを迫る事態である。次いで、この対立を原理的に成立させる方法を、仮想的な条件を設定することとして把握した。すなわち、個人の中に対立を生じさせるためには対立物を仮想的に設定する必要がある。最後に、仮想的な条件を設定するという方法が、『社会契約論』の中に見出せることを示した。そこでは、「一般意志」が、「特殊意志」の仮想的な条件であることを示した。そして、ルソー本人のテクストやアーレントの解釈を参照するならば、『社会契約論』の中に、この条件を設定するという方法があることは、善・悪の判断と選択をめぐる道徳的次元がルソーの政治学の前提となっていることを示しているのである。
第三の星野氏の発表は、大別して二つの部分からなる。第一にミシェル・ドゥギーの著作の哲学的な側面を紹介することであり、第二に、この側面の中でも、彼の特異な崇高論を抽出することである。以下では、この第二の側面に関して報告する。星野氏の発表の目的は、ドゥギーの崇高論に見られる「放物線を描く=寓話的な(parabolique)」運動を、「崇高」、「誇張」、そして「贈与」という三つの主題の連関関係の中から、抜き出すことである。この「放物線を描く=寓話的な」運動は、ドゥギー以外の崇高論の中でよく表象されるような上方への垂直運動(超越(transcendance))とは異なるモデルである。
偽ロンギノスの『崇高論』を精読する「大-言(Le Grand-dire)」の中で、ドゥギーは、「崇高(sublime)」という伝統的な訳語を批判し、sublimeの原語hypsos(希)における「高さ(le haut)」の意味を強調する。この強調は、「誇張(hyperbolē)」(修辞学では「誇張法」)を「上方への投擲」と解釈する方法へと結びつく。つまり、ドゥギーにおいて、「崇高」とは思考の「高み」であり、そこへ向けて思考を上昇させる方法が「誇張」なのである。この方法は、「崇高」を語る際に実践されるが、その語りにおいては、「崇高」と「比喩形象(figure, schēmata)」の関係が要となる。ドゥギーはこの関係を相互補完的なものとしている。つまり、一方で「比喩形象」が「崇高」を語るための不可欠の「技術」であり、他方で「崇高」はともすれば単なる大言壮語に陥る「比喩形象」の信憑性を保証するという、持ちつ持たれつの関係が両者の間には成立している。ドゥギーは、この相互補完関係を「交換(échange)」、「贈与交換(anti-dosis)」と呼ぶ。とはいえ、ドゥギーの諸々の作品に見られるように、この「贈与の交換」は「比類なきもの=比較-不可能なもの」との間に成立するものであり、その意味で「等価交換」をそのつど失効させる非エコノミー的な「交換」である。「崇高」へと上昇するための「技術」としての「贈与」によって、思考は「高み」へと「投擲される」(=「誇張」される)。しかし、「比類なきもの」である「崇高」との「贈与の交換」は、結局は成立しなくなり、これがために上昇もまた不可能となる。ドゥギーはこの上昇が不可能となる地点を墜落の契機と捉える。このように、ドゥギーは彼の崇高論の中で、「高み」の終点に達する前に上昇が不可能となり、そこから墜落するという運動を提示しており、これを「放物線を描く=寓話的な」運動と呼び、「超越」という垂直運動と区別しているのである。
以上、三者の発表に共通するテーマは、崇高の経験である。溝口氏と星野氏の発表は自明であるが、飯田氏の発表においても、このテーマは見られる。すなわち、仮想的に想定される善なる「一般意志」の経験である。これは、具体的には「自分自身との対立」として経験されるが、これは、溝口氏の実践理性における「矛盾」が崇高の経験によるものであるのと共通している。さらに、「一般意志」の経験は、個人が悪としての「特殊意志」を常に持っていることの経験でもある。飯田氏はその発表で、この悪の経験をルソーの「良心」論における罪意識の問題と関係させ得る可能性を示しつつ論じたが、これは星野氏のエコノミーを崩す「比類なきもの」との「贈与」関係と結びつく。すなわち、この「比類なきもの」に対する「反対贈与」の不可能性は、ドゥギーの崇高論においては「墜落」のモチーフと結びついていたが、これはある種の負い目の経験としても解釈できるだろう。とするならば、ドゥギーの崇高論は、「放物線状」というモデルとしての斬新さに加え、美学的問題と道徳論的問題との結節点をも示していると言えるだろう。
このように「矛盾」・「対立」、「墜落」・「負い目」という共通項を示しつつ、崇高の経験をめぐる三者の発表は美学と道徳論の間を有機的に連結させるものであった。
飯田賢穂(東京大学)
【発表概要】
ハイデガー批判としてのアーレントの存在論
── アーレント『精神の生活』三部作における『カント政治哲学の講義』の位置づけ
溝口万子(立命館大学)
本発表は、アーレントの『カント政治哲学の講義』における存在論を、ハイデガーの贈与論の批判という視点から検討し、アーレント研究に寄与することを目指すものである。
カントについて、時間の問題を存在の問題として捉えた「最初にして唯一の人」と評したハイデガーは、『カントと形而上学の問題』(いわゆる「カント書」)において、カントの『純粋理性批判』の図式機能(図式論)で扱われる超越論的構想力を感性と悟性の根であるとみなし、この時間を産出する超越論的構想力が存在論的綜合の根源的統一を可能にすると考えた。また、『物への問い』(いわゆる「物書」)では、『純粋理性批判』における「知覚の予料」に着目した。アーレントの『カント政治哲学の講義』でも、構想力と図式の問題が、講義の終盤に大きく取り上げられる。ここでアーレントは、構想力について説明するさい、視覚的・聴覚的に感受しうるレベルよりも原的で内的な感覚として、味覚と嗅覚をあげている。アーレントがこのように構想力と図式の問題を大きく取り上げたのは、ハイデガーのカント書を意識してのものであり、また、対象化作用よりも深いレベルでの原的で内的な感覚を取り上げたのは、物書を意識してのことであっただろうと考えられる。しかし、アーレントは、後期ハイデガーの贈与論を批判すべく、ハイデガーが取り上げなかった『判断力批判』を扱っており、これが『カント政治哲学の講義』にあたると考えられる。つまり、アーレントの意図は、自ら自身が視覚的・聴覚的に感受しえないレベルでの出来事(崇高な出来事)の次元から存在を贈与し、読者がこれを受け取る(味わう)という仕方で、人間自身が歴史をつくっていくことを示すことにあったと思われる。
J.-J. ルソーの道徳論から見た「一般意志」
飯田賢穂(東京大学)
ジャン‐ジャック・ルソー(1712-1778)は、「自分自身との対立」という経験を彼の道徳論の基礎として据えた。
ルソーの道徳論においては、現に「自分自身と対立している」という事実があり、これを出発点として善・悪に関する議論が組み立てられるのである。すなわち、この対立しているという事実を個人が認める限り、一方の「私」は善として想定され、他方の「私」は悪として想定されることとなる。そして、この「対立」の中でどちらか一方を善なるものとして選びとらねばならないこと、これがルソーの道徳論の基礎である。
ところで、彼の政治学的著作である『社会契約論』(1762)の中で、ルソーはこのような「対立」を「一般意志」と「特殊意志」との間に導入した。この導入によって、ホッブズ以来の神の意志としての国家意志という考え方を、ルソーは世俗化しょうとした。この作業は、神学の議論を背景に悪・罪の問題を扱うことが難しくなった18世紀のフランスにおいて、別のかたちで悪・罪の根拠を示す試みであった。
以上を踏まえた上での本発表の主題は、同著作第2編第3章にある脚注の解釈を通じて、通常、市民の「共通利益」を志向する「意志」として論じられてきた「一般意志」を、悪=罪としての「特殊意志」を成立させるための「仮想的」条件として捉えることである。本発表によって18世紀のフランス思想における道徳論の一形態が明らかになれば幸いである。
贈与、誇張、崇高 ── ミシェル・ドゥギーの崇高論
星野太(東京大学)
本発表は、詩人・哲学者であるミシェル・ドゥギー(1930-)の崇高論を、とりわけ「贈与」および「誇張」という主題に絡めて検討することを目的としている。1977年以降のフランスにおいて、ドゥギーは『ポエジー』誌などでの編集作業を通じて崇高論の紹介、発展に尽力した。また、自身も「大言」(『崇高とは何か』(1988)所収)という、偽ロンギノスの『崇高論』を論じたテクストを残している。ここで注目すべきなのは、デリダやナンシーといった同世代の論者の多くがカントの『判断力批判』(1790)を検討の対象としたのに対し、詩人であるドゥギーが偽ロンギノスをみずからの崇高論の重要な参照項とした、という事実である。
前述の「大言」は『崇高論』の内在的読解という体裁をとっているが、そこからドゥギーは「誇張」という重要な主題を引き出している。また、2006年に刊行された初期詩集のアンソロジー『与えあう』に付された序文では、この問題系がさらに「贈与」という主題を巻き込みつつ展開されている。この序文は、ドゥギーの詩篇「与えあう」(1981)をその著作『時間を与える』(1991)の巻末において引用したジャック・デリダに対する間接的な応答として読むことがおそらく可能である。本発表では以上に挙げたテクストを主な検討の対象とし、いまだ断片的なものにとどまっているドゥギーの崇高論の射程を理論的に探究していくことにしたい。
溝口万子
飯田賢穂
星野太
宮崎裕助