第5回大会報告 | 研究発表 4 |
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2010年7月4日(日) 14:00-16:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
研究発表4:表象の来歴 ── 思想史をプリズムとして
スコラの詩学 ── トマスによるアリストテレス読解を中心に
森元庸介(日本学術振興会)
ジョルダーノ・ブルーノにおける自然と芸術
── ゼウクシスの描くヘレネの肖像の逸話から
岡本源太(京都造形芸術大学)
崇高論の「発明」
── ボワローの『崇高論』翻訳・注解における「表象」の問題を中心に
星野太(東京大学)
【コメンテーター】岡田温司(京都大学)
【司会】森元庸介(日本学術振興会)
表象という概念は、西欧の芸術論における古典テクストが後代へと受容されていく過程で、どのように翻訳され、注釈され、再解釈され、そのありようを変化させてきたのか。「表象の来歴 ── 思想史をプリズムとして」と題された本パネルは、表象とそれに関連する諸概念の思想史的な由来を探求する、三つの意欲的な発表からなっていた。
一人目の発表者、岡本源太氏は、ジョルダーノ・ブルーノによるヘレネの肖像の逸話についての言説を手がかりに、規範にもとづく「模倣」としての芸術という概念が近代はじめに迎えた一つの転換点を浮き彫りにした。美の多様性や、神の自然創造と人間の芸術創造との類比といった主題についてのブルーノの芸術理解は、同時代のそれといかに共通し、異なったのか。最終的には、芸術を自然と同じく無限の産出力とみなすブルーノの思想史上の特異性が強調された印象を受けた。
岡本氏が、ブルーノの思想にルネサンス以降の芸術概念の一つの転換点(およびそうした図式自体からの逸脱)を認めるならば、次なる発表者、森元庸介氏は、アリストテレス『詩学』のスコラ学への受容という契機を俎上に載せる。ヘルマヌスによってラテン語訳されたアヴェロエス『「詩学」註解』では、模倣mimesisに対して比較assimilatioと表象repraesentatioの訳語が与えられており、これを承けてトマス・アクィナスは、表象を比較という知的営為の相関項と見なした。さらに後代のスコラ学者たちは、みずからは詩の表象を全面的に肯定したわけではないトマスの例外規定を敷衍して、表象そのものと表象されたものを峻別し、そこから、たとえ悪を描き出すような演劇表象であっても、ただその表象を享受することから生じる喜びであるならば罪にあたらないという結論を導いた。発表では最後に、以上のようなスコラ学の帰結が、表象を知的な観照の対象とみなす近代的芸術受容のありかたへと連なるものであることが指摘された。
森元氏は議論を通して中世から近代へと至る表象概念の連続性を強調したように思うが、他方で最後の発表者、星野太氏によって議論に付されたのは、「崇高」という概念が初期近代に経験した歴史的断絶である。星野氏は、偽ロンギノス『崇高論』をヨーロッパに広く知らしめるきっかけとなった、ニコラ・ボワローによる同書の翻訳・注解を取り上げ、それによって崇高論がいかに「発明」されたかを分析した。具体的には、ボワローが新たに持ち込んだ崇高と崇高な文体という区分や、崇高の特質としての単純さが議論に付されたが、発表後半ではボワローにおけるイメージの問題に焦点が当てられた。ボワローにとってイメージは描写や虚構に並置されるものであり、崇高な言葉がもたらす効果とは、実体なき装飾的効果である。個人的には、偽ロンギノスのエウリピデス解釈に対するボワローの「誤訳」に注目して、両者におけるイメージの伝達形式の違いを論じた結論部が興味深かった。
質疑応答では、まずコメンテーターの岡田温司氏から三人の発表に共通する関心として、1.三者とも翻訳や注釈という契機を問題にしていること、2.静的なもの(imago)ではなく動的なもの(actio)として表象概念を捉えようとしていることが指摘された。続いて各人に対して二、三の質問がなされたが、以下では主だったものだけを挙げることにする。
まず岡本氏へは、ブルーノにおける「偶有性」について、おそらく重要な概念であると考えられるにも拘わらず本発表ではあまり触れられていなかったため、説明が求められた。それを受けて岡本氏は、ブルーノの「創造」理解において、偶有(行為)は実体(意志)に従属するものではなく、両者ともに無限の産出性として一致するものだと返答し、規範をもたず選択しないことを自由で無限な創造と見なすブルーノの思想の特異さを、あらためて浮き彫りにした。
次に森元氏へは、比較assimilatioという語は、比較というよりもむしろ比喩や「なぞらえる」というニュアンスでは、と質問。森元氏は、たしかにアリストテレスの『詩学』のアラビア語訳・ラテン語訳全体ならば「なぞらえる」という意味であるが、トマスの参照している箇所(第4章への註解)では「比較」に重きが置かれており、これが表象そのものと表象されたものを区別する主知主義的土壌に適合するものであったと回答した。
星野氏へは、je ne sais quoi(何だかわからないもの/いわく言い難いもの)について。これはバロックでよく使われた装飾句であり、むしろボワローがそれを使うことにはこうした背景があるのではないか、と問いを投げかけた。これに対して星野氏は、je ne sais quoiという言い回しは、バロックでも新古典主義でも、また古代派/近代派でも使用されており、ボワローの場合は、完全ではないにせよ、崇高と関連づけ自らの陣営に組み入れることで利用しようとしていたのだろう、と説明した。
定員をやや超過するほどの来場者を迎えた会場からも相次いで質問がなされ、崇高における文体の単純さと出来事の単純さの関係、比較という語のニュアンス、いわく言い難いものと崇高との差異などが、時間のかぎり究明された。三者の発表は各々の専門分野に応じた内容ではあったが、思想史に照らして表象概念を再検討するという視点で一貫していた。古典的な研究対象・手法に基づきつつも、現代的な関心へと聴衆を送り返していくという本パネルの趣旨は、充分に果たされていたのではないだろうか。
【パネル概要】
表象の概念が、その豊かな意味内容をつうじて、複数の学問領域を媒介する貴重なインターフェイスとなりうることは、本学会を中心としてこれまで生み出された数々の学術的成果によってすでに確証されている。では、この豊饒さを歴史へと送り返すとき、そこで見えてくるものは何か。
本パネルでは、西欧芸術論にとって範例的な位置を占める古典テクスト――アリストテレス『詩学』、キケロ『発想論』、偽ロンギノス『崇高論』――が後期中世から初期近代に潜り抜けた再解釈のプロセスを検証し、表象とその関連概念との分節を思想史的に解明することで、上記の問いに対する答えを探りたい。表象という概念の豊穣さは、思想史的な観点からすれば、創造と模倣、制作と認識、また表現と強勢といった芸術論上の基礎的な問題構成においてこそ、もっとも十全に示されている。「表象」の原語として一般に措定されるrepraesentatio については、森元発表がスコラ学によるアリストテレス読解を対象としながら、重点的に検討をおこなう。また、星野発表は、ギリシア語からラテン系諸語への文脈移動を念頭に置きつつ、表象・想像・虚構という概念間の分節点の一端を、ボワローの『崇高論』翻訳を手がかりとして明らかにする。これに対し、岡本発表は、「模倣」の概念がひとつの臨界に到達する局面を、ブルーノによるキケロ再解釈のうちに探りながら、表象概念に固有の輪郭を逆照射することをめざす。以上を通じて、表象という概念の豊穣さを湧出させているそのたえまない理論的再編の動勢を捉えることが、発表者一同の課題であり、願いでもある。
スコラの詩学 ── トマスによるアリストテレス読解を中心に
森元庸介(日本学術振興会)
通念によれば、西欧におけるアリストテレス『詩学』の受容はルネサンスに始まるとされている。だが、すでに中世にあって、アヴェロエスによる註解のラテン語訳をつうじて『詩学』はスコラ学に流入し、周縁的にではあれ知られ、かつ論じられていた。とくに、トマス・アクィナスは、忌むべき対象の模倣による昇華を論じて名高い第四章の記述を複数の文脈において参照し、人間の自然な性向としての模倣の快について考察を加えている。この読解の特性を考えるうえで注目されるのは、ギリシア語mimêsisに対して repraesentatioの訳が充てられたという事実である。アヴェロエスの訳者ヘルマヌス・アルマヌスからトマス、そして後代のスコラ学者たちに受け継がれたこの選択は、mimêsisにimitatioの訳語を充てたルネサンスの文献学者たちのそれとは明白な対照を成している。ここに、スコラ学に固有の『詩学』理解を看取することは可能なのか。模倣の快を比較の快と強く関連づけ、藝術の快を心的な操作の相関項として定義したアヴェロエスの立論を踏まえながら、キリスト教思想のなかで、従来は避けるべき遊興(ludus)と考えられた演劇、ひいては演劇が代表する藝術の相対的復権の端緒を跡づけるとともに、この復権が知的対象としての藝術理解とどのように相関するのかを検討したい。
ジョルダーノ・ブルーノにおける自然と芸術
── ゼウクシスの描くヘレネの肖像の逸話から
岡本源太(京都造形芸術大学)
画家ゼウクシスは、クロトンの五人の乙女からそのもっとも美しい部位を選び集め、このうえなく美しいヘレネの肖像を描いたという。おもにキケロの口からルネサンスの西欧に伝えられたこの逸話は、芸術が模倣すべき規範の寓意として語り継がれていた。ジョルダーノ・ブルーノもまた、いくどかこの逸話に触れている。しかしながらブルーノは、模倣すべき規範については沈黙する。ブルーノによれば、この逸話が示しているのは、創造の根源の認識不可能性であり、また自然の美の多様性なのである。
ブルーノの沈黙には、近代の黎明にあって「芸術」概念が被った転位が、示唆されているだろう。この転位はもちろん、「模倣」から「創出」へという、いくぶん言い古された定式に押し込めることも可能である。規則が詩を生むのではなく、詩が規則を生み、したがって真の詩人の種類だけ真の規則の種類があるという、『英雄的狂気』(1585)での名高い議論は、まさにこの定式を確証しているかに思える。だが、このとき重要なのは、芸術が模倣ではなく創出として捉えなおされていくなかで、自然と芸術をめぐるブルーノの特異な思索が語り出されていることである。その内実を、本発表ではブルーノの語るヘレネの肖像の逸話のうちに探っていきたい。それにより、近代の黎明に芸術と模倣との結びつきが自明でなくなったとき、その根底で生じていた転位の一端を明らかにできるだろう。
崇高論の「発明」
── ボワローの『崇高論』翻訳・注解における「表象」の問題を中心に
星野太(東京大学)
修辞学における「崇高」概念の起源であるとされる偽ロンギノスの『崇高論』は、1554年のギリシア語版の刊行、およびそれに続く複数の翻訳・注解の刊行を経て、広く西欧に伝播することになる。なかでも、本書の受容を決定的なものにしたのは1674年のニコラ・ボワローによる仏訳(『崇高論、あるいは言説における驚異的なもの』)である。ボワローによるこの翻訳は、フランスのみならずイギリスをはじめとする諸外国にも多大な影響を及ぼすに至り、その後約一世紀にわたって『崇高論』の範例的な翻訳として扱われることになる。
とはいえ、しばしば指摘されるように、このボワローの翻訳は原文のギリシア語に忠実なものでは決してない。章立ての改変、および原文には見られない表現の挿入は言うに及ばず、序論においては「崇高le sublime」と「崇高な文体le style sublime」という、原文にはまったく存在しなかった区別までもが導入されている。さらに、ギリシア語の「表象phantasia」をめぐるボワローのいささか屈曲した理解は、後世の偽ロンギノス受容について考える上で看過しえない内容を含んでいる。本発表は、この『崇高論』の翻訳および注解を検討することを通じて、そこで表象・想像・虚構といった諸概念がいかに規定され、分節化されているかを明らかにしたい。以上の作業を通じて、初期近代における崇高論の「発明」の一端を提示できれば幸いである。
森元庸介
岡本源太
星野太
岡田温司