第5回大会報告 | 研究発表 5 |
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2010年7月4日(日) 14:00-16:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
研究発表5:モデルとしての建築
建築の曝け出された臓腑
── 18世紀後半の廃墟表象における瞬間性と暴力性について
小澤京子(東京大学)
建築的アトピア
── 「デ・ステイルグループの建築家たち」展、エフォール・モデルヌ画廊、パリ、1923年10月
米田尚輝(国立新美術館・跡見女子大学)
人間を設計するためのプラン
── アレクサンドル・ロトチェンコの構成主義デザイン
河村彩(早稲田大学)
【コメンテーター/司会】松浦寿夫(東京外国語大学)
研究発表5では建築という対象をめぐる3つの主題が挙げられたが、どれも建築そのものではなく建築を表象する絵画、図面、また内装や家具といった、建築からみれば付随物ともされがちな事柄を中心としていた。
小澤京子氏は、遠い過去への誘いや黙示録的な教戒としてではなく、近過去や現在に、ひいては建設途上から未来に向けて、崩落のイメージを投射する、革命期フランスにあって特異な建築イメージ、とくにユベール・ロベールの絵画を取りあげた。建築物の経年変化に応じた姿が「廃墟」表象を生み出したとはいえ、その表象が言わば目前の建築物に対応する可能態として現在あるいは未来へ顚倒されることにより、時間感覚は倒錯する。同時にそこでは永続性の容れ物とされてきた建築に対し、祝祭的な破壊という瞬間性も付与される。これに対し建築でまず崩壊する、あるいは廃墟表象において引き剥がされる部材はいつでも天井であることを、彫像への破壊行為が断頭という形を取ることと重ねた司会の松浦寿夫氏のコメント、またリスボン大地震を参照しつつ、神罰としての天災の場合と革命や戦争など人災の場合との並立関係を確認する会場からのコメントがあった。
米田尚輝氏は、軸測投影をめぐるデ・スティル、とくにテオ・ファン・ドゥースブルフの思考を中心に取りあげ、これとル・コルビュジエとの接点を1923年10月の展覧会に求めた。軸測投影は色面を空間に浮遊させ、支持体としての建築のテクトニックな側面を弱めることで建築をオブジェ化する(純粋に美的な対象とする、という意味か)描法として位置づけられた。松浦氏は軸測投影についての基本的な知識について補足説明を求めたが、ここでは2組の平行な辺で囲まれた平面が、図面上でも平行四辺形で描かれることが重要だろう。消失点がなく、奥行きを感知しにくい平面の重なりが、実際には物質的な量塊としての建築物を捨象するのである。
河村彩氏は、1920年代のアレクサンドル・ロトチェンコを取りあげ、生産体制や人間とものの関係などへの考察を背景にした家具デザインを紹介した。ロトチェンコは資本主義下での大量生産・消費と、それを駆動する流行とを批判的に把握し、埋め合わせのものではない「同志」としての事物を、プロレタリア文化・啓蒙組織としてのプロレトクリトでの実践と関係づけて理論づけた。このことは、家具に二種以上の機能を重ねたり、折りたたみ可能にして過剰な装飾を除いたりすることで、機能をより高密度に集積しようとするデザイン意図の裏付けになったという。松浦氏はこの発表を時間・空間的編成としての建築の側面を照らし出すものと位置づけ、変形可能なものの背景にあるはずの変形不可能なものへの注意を喚起した。
質疑応答ではまず米田氏が河村氏に対し、ロトチェンコにおける尺度としての人体という発想の有無と、複数の機能を兼ね備えた家具における機能と装飾という二分法の帰趨を尋ねた。前者は否、後者については変形可能な家具と人体の変形可能性を重ねる既往研究の存在に言及した上で、プロレトクリトとの関係を強調する今回の発表ではあまり言及しなかった旨が答えられた。折りたたむ/開くという形での変形が多かった点、また合理化と裏腹の関係にある行為の規律化との関係についての松浦氏との応答では、河村氏は1925年「アール・デコ」展の予算や、一般的に窮乏した住宅供給など、資源不足がこれらの発案を生んだ点に言及した。会場からはロトチェンコの妻への手紙の引用文中に人間とおもちゃ、あるいは幼児同士の遊び相手のように事物を捉えている要素が見られる点から、新たに生産されるべき合理的人間の(これから成長すべき)「幼児性」に至る指摘がなされ、応答としては人間と事物の相互作用としてのロトチェンコの発想が語られた。
人間の身体と建築物を重ね合わせるアントロポモルフィックな発想に関して小澤氏は、ウィトルウィウス以来の宇宙的調和を体現した人体ではなく、リアルに傷ついたり損壊されたりする人体との重ね合わせである点を強調した。ピクチャレスクなテイストの中に死や暴力を籠めるという所作に関しては、それが無毒化されているのか剥き出しのまま盛り込まれているかという軸を指摘し、両モードが並立している点を述べた。建物が残っている場合ではなく、名前とエピソードだけが残り詳細な記録もない廃墟の場合における議論についての質問に対しては、双方の意図がかみ合わない側面もあったが、エピソードにまつわる歴史的記録を問題としている旨が強調された。
米田氏のタイトル中にある「アトピア」という用語に関する応答では、モダニズムの先駆けとしてではなく、ユートピア的な空間を表現しながらも、本来実現されている建築空間が図上に表れない歪みの指摘として使われた旨が説明された。非・場所という命名と空間の捻れという示されるべき事態とのずれもこの文脈から指摘された。
3者とも建築自体に触れず人間の認識モデルとしての建築という側面を扱ったが、認識の枠組みと関連しながら人間に操作されやすい対象として建築物を捉える見解は発表者3名に共有されていたようである。建築形態を言語や概念と結び付けて語る困難は筆者にもよく理解できる。しかし一般に、「芸術」概念だけでは捉えがたい建築という現象(実は「純粋芸術」一般にも言えることである)に絡む雑多な文脈を解きほぐし、語ることのスリルを、形態ないしその残余としての空間に収斂させることは、建築そのものの見地からすれば建築物の意味を縮減させる行為にも見えかねない。(表象であれ芸術であれ感性であれ、何を名乗るにせよ)実証史学にとどまらない人文学を名乗るには、これを補って余りある豊穣さを求め、掘り起こすことが必須としても、併せてその先の可能性も模索せねばならないだろう。
【パネル概要】
西洋建築史において建築図面は、建造物を文字通り実現するための手立てのひとつであった。必要とされる情報を組織化し、体験を構造化することが建築術であるとすれば、その工学的操作に潜在している認識の枠組みこそが、逆説的にも多彩な建築術を算出してきたといってよい。18世紀西洋における廃墟の美学に置かれた賭け金は、建築の理念が物質化される際に立ち現れる複層化された時間の情動的経験にほかならない。では、建造物それ自体が展示(=知覚)されるプロセスに介入する時間の契機とはいかなるものか。アロイス・リーグルは建造物の時間の位相を経年価値と歴史的価値との関連のうちで論じたが(『現代の記念物崇拝』、1903年)、彼にとって建造物とは、人間の意志と行為によって基礎づけられた統一体としての実体であった。この19世紀的な図式は20世紀の初頭に、素材(=ミディウム)の物質性それ自体への欲望へと収斂していく。かくして建築ドローイングは、建築プロジェクトの素材としても、建築をモデルとした芸術のジャンル(=メディア)としても、その特性は規定されえなくなる。1925年にはパリの万国博覧会において地域主義と機能主義が合理的かつ政治的な仕方で達成されたが、実のところ、1920-30年代のル・コルビュジエとロトチェンコの営みとは、感情を可能にする技術を構築することであった。本パネルが問い直すのは、これらの構成されたシステムに同時に偏在する感情(アフェクション)の様態である。
建築の曝け出された臓腑
── 18世紀後半の廃墟表象における瞬間性と暴力性について
小澤京子(東京大学)
瞬間的な破壊の結果生じた廃墟の表象が、18世紀後半には描かれ始める。その背景には、戦争や革命などの動乱がある。これらの廃墟表象は、人為的な暴力によって瞬時に出来したものであるにも関わらず、その構図や描画技法においては、17世紀以来の「廃墟趣味」の伝統を受け継いだ、「美的」なものである。例としては、プロイセン軍の爆撃によって崩壊したドレスデンの教会(ベルナルド・ベロット)や、フランス革命によって今まさに炎上しつつある監獄(ユベール・ロベール)などを挙げることができる。
18世紀の西欧で興隆をみた廃墟趣味は、基本的には歴史的な遺跡にまつわるものであり、さらにはディドロがその廃墟論で称揚したように、廃墟の上を流れた長大な時間や遠い過去に想いを馳せるものであった。廃墟と結合する感情とされるメランコリーやノスタルジーも、この「時間的遠さ」からもたらされる。このような静的な廃墟趣味と、上述のいわば「瞬時的廃墟表象」とでは、体現されている時間性がまったく異なっている。後者に存在しているのは、悠久の時間が刻む痕跡ではなく、カタストロフィックな暴力性の爪痕である。そこでは、瞬間的・個別的な暴力性の体験や記憶と永続的・普遍的な審美性とが、奇妙にも共存している。
本発表では、暴力性と瞬間性という二つの契機を孕んだ建築表象に体現をみた、18世紀後に先鋭化する時間意識――時間の永続性・継続性への危機意識、「瞬間」や「断絶」の発見――を炙り出し、分析を加えたい。
建築的アトピア
── 「デ・ステイルグループの建築家たち」展、エフォール・モデルヌ画廊、パリ、1923年10月
米田尚輝(国立新美術館・跡見女子大学)
ル・コルビュジエが『建築をめざして』(1923)の中に、オーギュスト・ショワジーの著作『建築史』(1899)から借用した軸即投影図を挿し込んだことはよく知られている。軸即投影の描き方それ自体は、19世紀にはすでに初等デッサン教育として法制化されている。例えばヴィオレ=ル=デュクはこれを芸術家の養成としてではなく、観察の記録方法として普及させた。その結果、芸術的デッサン(人体を基本としたアカデミックなデッサン)と技術的デッサン(工業社会に対応する幾何学デッサン)が複合化される。しかし実のところ、建築学における幾何学教育としてしか認識されていなかった軸測投影の美的効果がより積極的に展開されるのは、1920年代フランスの画家たちによってである。
本発表では、1923年10月にパリのエフォール・モデルヌ画廊で開かれた「デ・ステイルグループの建築家たち」展に照準を定め、軸測投影が1920年代に絵画表現の領域に導入される諸相を分析する。この展覧会は、軸測投影の性格が観者に要請する多義的な知覚の様態が、建築、絵画、写真といった多様なメディアと通じて1920年代の近代美術の文脈に顕れたこと、そしてオランダの美術家テオ・ファン・ドゥースブルフを中心としたにデ・ステイルの建築と絵画が初めてパリの前衛芸術に介入した、という2点において重要である。ファン・ドゥースブルフが絵画と建築の調和的な統一へ向けて、軸即投影の表象システムを変奏していく一方で、絵画と建築との無媒介的な融合を拒むル・コルビュジエとの影響関係を明確にしたい。
人間を設計するためのプラン
── アレクサンドル・ロトチェンコの構成主義デザイン
河村彩(早稲田大学)
ロシア構成主義は、バウハウスやデ・ステイル、アール・デコと並び、機能性という美学に基づいた近代デザインの一潮流とみなされているが、工業製品として実際に実現されたものは限られている。だがそれは、そもそも構成主義が製品というハードウェアの側面ではなく、情報や人間の認識といったソフトウェアの側面に焦点をあてていたことに起因するものではなかったか。本発表では、構成主義が事物を生産することよりも、むしろ事物と人間との新しい関係を提示することによって、人間の方を新しく創造することを志向していたことに注目する。構成主義の様ざまなプランは、芸術という枠組みを超えて、人間の認識や感情に働きかけるためのモデルとして機能していたことを明らかにする。
本発表で焦点をあてるのは、アレクサンドル・ロトチェンコによる1920年代の活動である。ここでは彼のデザインした家具、1925年のパリ万博で発表された労働者クラブ、そして舞台や映画のセットをとりあげ、それらが社会主義社会における合理的な新しい生活モデルとして提示されたことを明らかにする。また、広告や組写真を用いたパンフレットを通して、ロトチェンコが描いた便利で快適な近代的都市生活のイメージを考察する。注目すべきことは、これらの仕事が芸術や単なるプロパガンダを超えていたということである。ロトチェンコは、新経済政策(NEP)を背景に、多様なメディアと手段によって、平面と立体、マテリアルと情報、オブジェと表象の区別を超えながら、人間の認識に働きかけようとした。
小澤京子
米田尚輝
河村彩
松浦寿夫