第4回研究発表集会報告 | 研究発表 5 |
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2009年11月14日(土) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
研究発表5:20世紀前半のヨーロッパにおける舞台と思想
休止か中断か ── シェーンベルク『モーセとアロン』第二幕最終場面について
茅野大樹(東京大学)
悲劇をめぐる闘争 ── ゲオルゲ派・ベンヤミン
長谷川晴生(東京大学)
舞台上の疎外者 ── グラン・ギニョル演劇におけるホラーの現象学
斎藤喬(東北大学)
サミュエル・ベケットとジャンバッティスタ・ヴィーコ ── 評論「ダンテ…ブルーノ・ヴィーコ…ジョイス」(1929年)と『新しい学』における擬人化批判の問題
木内久美子(東京大学)
【司会】根本美作子(明治大学)
本セッションでは、広義のドラマという領域における、表象の限界や可能性/不可能といった、二〇世紀初頭のモダニズムの基本課題が検討された。茅野氏は「休止」の概念を中心に、長谷川氏は「アレゴリー」をめぐって、斎藤氏は「狂気への恐怖」、木内氏は「擬人化の限界」を基本に、それぞれ、シェーンベルグ、ベンヤミン、グラン・ギニョール、ベケットといったモダニズムを代表する芸術家、思想家、そして文化現象について論じながら、モダニズムの直面した壁の〈超域的〉性質を改めて感じさせるセッションとなった。
〈茅野大樹〉
シェーンベルグの未完のオペラ『モーセとアロン』における台詞と音楽の分離が、それらメディウムの「根源的な伝達不可能性」を問題化しているとし、この作品をメタ・オペラであることを指摘した後、zäsur(休止)の概念を中心に、アドルノとラクー=ラバルトのこの作品に関する評価を比較検討した。両者の見解をきわめて明快に整理しながら、このzäsurをヘルダーリンに即して解釈し、第二幕最終場面におけるモーセの叫びに音楽そのものの休止を見出すラクーラバルトの見解が、作品そのものの存在意義を否定しかねない暴力性を孕んでいると指摘した。発表全体の構成はきわめてバランスがとれており、アドルノ、ラクー=ラバルトの批評をきわめて明確に整理した、とても聞きやすい発表であったが、質疑応答で指摘されたように、この作品をめぐる両者の議論の紹介にとどまっている観がなきにしもあらず、今後、さらなる茅野氏自身の分析が期待されるところである。
〈長谷川晴生〉
ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』で展開した、古典悲劇の象徴性と近代悲劇のアレゴリー性という対立が、政治を美に従属させる保守革命派のゲオルグ派のグンドルフに先取られていたことを指摘しながら、アレゴリーに近代的な意義を見出したベンヤミンの特異性を分析した。発表前半の悲劇をめぐる両者の接点と対立点に関する議論は緻密に運ばれ、理解しやすかったものの、そこから、ベンヤミンのアレゴリー概念の近代性をそのボードレール論に読み取り、政治的視点へと移行していく後半部分では、やや性急な論の運びになっており、「グンドルフが悲劇に没落からの瞬間的快復を読んだのに対し、ベンヤミンは没落自体に内在する救済を浮上させようとした」という氏の結論そのものは説得力のあるものであるとしても、質疑応答で指摘があったように、そこに到達するまでの論の展開はやや不十分であった。
〈斎藤喬〉
悪びれずに「少し肩の力をぬいてお聞きください」まず断った斎藤氏の発表はなるほど、ドイツ系の観念的な世界から一気にモンマルトルの猥雑な世界にわれわれを下降させ、20世紀初頭のフランスにおける「精神障害」と、グラン・ギニョールの演出した恐怖について、その概略を示した。しかし、19世紀末からフランスの精神界に多大な影響を与えていた二重人格などの発見が、アンドレ・ド・ロルドの恐怖演劇の中核となっているという報告そのものは面白いものの、報告にとどまっている観があった。精神医学の世界からはアルフレッド・ビネの名が挙がるにとどまり、質疑応答で指摘されたように、グラン・ギニョールの社会的位置づけに関する考察がまだ欠けているおり、映画などの同時代的な大衆娯楽への目配せも含めて、今後より多角的な視点から研究に取り組むことの必要性が感じられた。
〈木内久美子〉
ベケットがジョイスに頼まれて短期間で執筆したこと有名な論考を、それが剽窃もあえて臆さずに下敷きにしているクローチェやミシュレ、ヴィーコ自身のテクストと緊密に関わらせながらきわめて緻密に分析した。ヴィーコの擬人化論の展開を、自ら(ベケット)のジョイス批評のテキストそのものに身振りとして取り組んでいることを明るみに出したりする手さばきは鮮やかであり、ベケットの「頭の良さ」に改めて感服するとともに、ベケット研究の困難をリアルに想像させてくれた。しかし、30分間の発表時間には内容がありすぎ、ヴィーコ、ベケット、そしてまたジョイス、クローチェなどの間を忙しなく行ったり来たりしているうちに、聴衆はときどき戸惑わざるをえなかったのではないか。議論の骨子の部分を必要以上に強調するくらいでなければ、これだけの複雑な内容の発表は非専門家にとっては残念ながらなかなか理解されにくいだろう。質疑応答では、ベケットのセザンヌ論における擬人化批判の問題について議論が交わされた。
【発表概要】
休止か中断か ── シェーンベルク『モーセとアロン』第二幕最終場面について
茅野大樹(東京大学)
A.シェーンベルクによる未完のオペラ「モーセとアロン」(1930‐32)は12音技法によって作曲されたオペラとして音楽史上極めて重要な意味を持っているが、それ以上にこの作品を際立たせているのは、それがオペラという表現形態、あるいは「歌唱」と「言葉」といった表現媒体そのものの(不)可能性の問題を作品自体が問うていることである。とりわけ、台詞と音楽が完成されたのは第二幕までで、第三幕は作曲されずに台詞のみとなっていること、そして第二幕がモーセの叫びのような独白によって不意に閉じられることで生じる第二幕と第三幕の間の断絶は、これまでも幾度となく問題にされてきた。
本発表においては、まずこのオペラを論じたTh.アドルノによる論考「聖なる断片」とさらにそれを批判的に論じたPh.ラクー=ラバルトの論考を中心に比較考察することで、両者がこの作品における第二幕最終場面の効果を捉える際の立場の相違を明確にする。そして両者が問題にしている「休止(Zäsur)」をベンヤミンの「親和力論」における記述にまで遡って捉え直すことで、単に未完のままに中断されたかにも見えるこの場面が、オペラにおいていかなる表現の問題を提示しうるかを改めて問う。その際には、この作品において「歌唱」と「語り」が拮抗する異なる表現媒体としての機能を与えられていることについても考察を加えたい。
悲劇をめぐる闘争 ── ゲオルゲ派・ベンヤミン
長谷川晴生(東京大学)
『ドイツ悲劇の根源』や「アレゴリーとバロック悲劇」などの著作においてバロック悲劇を分析するとき、ヴァルター・ベンヤミンは象徴とアレゴリーという認識方法の対立を援用し、象徴を古典悲劇における、アレゴリーを近世悲劇における世界認識を規定する概念であると主張したことは知られている。このロマン派神話学に由来する対立を古代と近世の詩法・劇作法に対応させる思考は、実は既にグンドルフらゲオルゲ派の文学史家に先取られていたものであった。両者を分かつのは、グンドルフらが古典劇を継承する象徴劇であると定義するシェイクスピアら一部の近代悲劇をむしろ成功したアレゴリー劇であると見做したこと、およびボードレールらフランス象徴詩の成果をアレゴリー論に導入することでこの概念を近代化したことである。
詩的言語による政治的言語の介入による保守革命(ホーフマンスタール)を意図したゲオルゲ派に対し、ベンヤミンは「政治の美学化」批判の思想家と見られている。本発表では、ベンヤミンの近世悲劇論をゲオルゲ派に対する共感を包含した闘争として読み直すことで、彼が逆説的にも試みた詩の政治の様相を明らかにする。その際には、ゲオルゲ派・ベンヤミンともに近代に特有の没落状態を問題にしながらも、前者が悲劇に没落からの瞬間的回復を読んだのに対し、後者が没落自体に内在する救済を浮上させようとしたという、詩的戦略の差異が主題となろう。
舞台上の疎外者 ── グラン・ギニョル演劇におけるホラーの現象学
斎藤喬(東北大学)
本発表は、1897年から1962年までパリのモンマルトルで恐怖を売り物に興行をしていたという劇場グラン・ギニョルの諸戯曲を対象に、そこで現象していたであろう「ホラー」について考察するものである。ここではとりわけ、グラン・ギニョルの中心的な劇作家であったアンドレ・ド・ロルドの諸作品のなかから精神病院などを題材にした「医療劇」を取り上げ、主に殺人者として姿を現すことになる「疎外者」(«aliéné»、「精神病者」を指す当時の言い方)に着目する。つまり、本発表の目的は「精神疎外」(«aliénation mentale»、「精神障害」)についての社会的な言説と恐怖演劇における対象選択の関連性を考慮に入れながら、劇場における実体験としての「ホラー」が現象する可能性について検討することにある。また、このことに関連して、ド・ロルドの協力者として、ソルボンヌで心理学の教授をしていたアルフレッド・ビネの名が挙がっていることも無視できない。ビネは、心理学における「人格変容」の考え方に基づいて役者論を発表したりもしているのだが、こうした知識人の存在は、グラン・ギニョル演劇の対象選択にある程度の権威づけを与えることになるだろう。このようにして、舞台上で訳者によって演じられる「疎外者」が演劇の「ホラー」を惹き起こす可能性について、戯曲テクストの分析によって明らかにすることがここでの試みとなっている。
サミュエル・ベケットとジャンバッティスタ・ヴィーコ
── 評論「ダンテ…ブルーノ・ヴィーコ…ジョイス」(1929年)と『新しい学』における擬人化批判の問題
木内久美子(東京大学)
ベケットは、1930年代のテクストにおいて、擬人化批判を先鋭化させている。擬人化とは、人間でないものを人間のように表現する修辞法である。この修辞法は、二者の間に類比関係を見て取ること、つまり非人間的なものを人間的な「物差しで測ること」に存している。何らかの対象を測定して縁取ることは、たしかに人間の言語表現にとって不可避である。ベケットはこれを引き受けた上で、「無知」という形象に基づいて擬人化批判を徹底化しようとした。
それを準備した論文が、一九二九年のジョイス論「ダンテ…ブルーノ・ヴィーコ…ジョイス」である。そこではジョイスの『進行中の作品』を論じるにあたって、ジャンバッティスタ・ヴィーコの『新しい学』の第二巻「詩的知恵」が引用・注釈されている。その箇所では、まさに人間的な知や分別を行使する能力をもたない、いわば「無知」な「野蛮人」の「詩的想像力」が論じられている。またベケットは二つのヴィーコ論を参照・引用している。ひとつはジュール・ミシュレが自らのヴィーコ翻訳に付した序論「ヴィーコの生涯と体系についての叙説」であり、もうひとつはベネデット・クローチェの『ジャンバッティスタ・ヴィーコの哲学』である。
本発表は、ヴィーコ自身のものを含む以上のテクストを比較検討し、ベケットの引用・注釈を分析することによって、その擬人化批判の企図と帰趨を明確化しようとするものである。
茅野大樹
長谷川晴生
斎藤喬
木内久美子
根本美作子