第5回大会報告 | 研究発表 3 |
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2010年7月4日(日) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
研究報告3:来るべき〈エコノミー〉の構想 ── 経済の時間と人間の時間
スティグレールのメディア・コミュニケーション論 ── 意識と特異性をめぐって
谷島貫太(東京大学)
「生産」の可逆性 ── バタイユにおける「一般経済」と消滅の技法
大池惣太郎(東京大学)
構造転換の可能性 ── ラカンにおける「四つのディスクール」の哲学的規定にむけて
荒谷大輔(江戸川大学)
【コメンテーター】佐藤嘉幸(筑波大学)
【司会】大橋完太郎(東京大学)
エコノミーという概念の輪郭は、たしかに捉えどころがない。あらゆるところにエコノミーは見出され、それゆえそれぞれのエコノミーを巡る言説もまた際限なく増殖していく。大橋完太郎氏司会のもと、佐藤嘉幸氏をコメンテーターに迎えて行われた本パネル、「来るべき〈エコノミー〉の構想 ── 経済の時間と人間の時間」は、その捉えどころのなさを一つの作業台とする。そこではジョルジュ・バタイユ、ベルナール・スティグレール、ジャック・ラカンという三人の思想家・哲学者が俎上に乗せられ、エコノミーを巡るそれぞれ独自の議論に焦点が当てられる。
今回の三氏による発表に共通するのは、「来るべきもの」へのまなざしである。
貨幣という画一化のメディアは、資本と化すことで自律的かつ強力な再生産の動力を獲得し、社会の全体を内側から組み換え直していく。「来るべきもの」へのまなざしは、まずは大池惣太郎氏によって、この際限のない組み換え圧力に抗する一種の想像力の力能として構想される。そして新たな想像力のその遂行主体として見出されるのはジョルジュ・バタイユだ。「「生産」の可逆性 ── バタイユにおける「一般経済」と消滅の技法」と題された発表において、バタイユは従来的な「侵犯」の思想家という観点からではなく、有用性を目的とする「生産」パラダイムを「還元」する視点転倒の技法の提起者として取り上げられる。バタイユのこの捉え返しに大きな役割を果たすのが、ジャン・ボードリヤールによる「悪」あるいは「悪の知性」の概念だ。みずからをいったん「死」に引き渡し、あらゆる「生」を還元する。バタイユによる「一般経済」という視座のうちに見出されたこの実践をボードリヤールの「悪の知性」と重ね合わせることで、大池はバタイユの「消滅の技法」なるものを取り出していく。そこから浮かび上がるのは、「生産」パラダイムを規定する蓄積の論理を軽やかに裏切っていく、引き算の論理というもう一つのエコノミーである。
人間の意識は忘れやすく、そこには把持と忘却のエコノミーが存在する。その意識のエコノミーに焦点を当てるのが、谷島貫太による発表「脆弱なる意識のエコノミー ── ジャック・デリダからベルナール・スティグレールへ」だ。同じくフッサールを批判したデリダとスティグレールの議論の焦点の差異を追っていくことで、谷島は本質的に忘れやすいものとしての脆弱なる意識という新たなトピックの浮上に注意を喚起する。この動向は、明確に技術的および産業的状況と結びついている。というのも、スティグレールが着目する時間対象、すなわち音楽や動画など、それ自体が時間性を有する対象が産業的に組織化されることによって、意識をめぐるエコノミーが根本的に書き換えられることになったからだ。意識の忘れやすさというものが、それを補い組織する意識産業、メディア産業に組み入れられ、そのことによってそこに新たなエコノミーが出現したのだとすれば、それを批判するためには、まずは意識の脆弱さそのものを正しく問いにかける必要がある。谷島による発表は、その問いの必要性を正面から取り上げようとするものであり、新たなエコノミーを構想するための、いわば準備運動であると言えよう。
もし資本主義というものが、貨幣をメディアとした一種のディスクールであるのだとすれば、ディスクールのエコノミーについての分析は、資本主義を理解するための大きな武器となりうる。荒谷大輔による発表、「構造転換の可能性 ── 後期ラカンにおけるディスクール間の移行について」がまず着目するのは、後期ラカンが「主人のディスクール」をめぐって展開した、ディスクールの諸エコノミーに関する議論である。荒谷はそこからさらに、資本主義は「大学人のディスクール」と同じエコノミーを有すると述べるラカンの記述に着目することで、ディスクールのエコノミーに関する議論を、資本主義というエコノミーと接続する。荒谷の分析によって浮かび上がるのは、リーマンショックへと至りつくある種の金融資本主義が、実はラカンが「大学人のディスクール」と呼んだ、特定のディスクールのエコノミーを有しているという事実である。だとすれば、その資本主義の体制の移行は、ディスクールの移行と同様のロジックで生起するはずだ。かくして荒谷による発表は、後期ラカンが展開したディスクール論に微細に分け入ることで、現状の資本主義体制からの移行を構想するための想像力の足場を取り出すことに成功する。
エコノミーといういくらか茫漠とした作業台で展開された以上三つの発表に対しては、コメンテーターおよび会場から、実にさまざまな質問が投げかけられた。たとえば谷島に対しては、まずは会場から発表で言及されていた「指標の外在性」の正確なステータスや、あるいはスティグレールによる「象徴の貧困」の概念とのつながりに関する問いが提出され、またコメンテーターからは、ドゥルーズの『シネマ』での議論を踏まえた上で、映画と無意識との関連についての質問が提出された。また荒谷にはコメンテーターから、68年と学生運動との屈折した関係性という観点から見ての後期ラカンの位置づけ、あるいはマルクスを読み直す試みとしてのラカンをどのように考えるのか、といった質問が提起された。
しかし何はさておきハイライトとして挙げておかなければならないは、バタイユにおける「生産」をめぐって、コメンテーターの佐藤氏と発表者の大池氏との間で交わされた激しい応酬である。バタイユによる「マーシャル計画」への言及のうちに見られる一種の「破壊の生産性」を示唆した佐藤氏に対し、大池氏はほとんど前傾姿勢となってその意見が「生産」パラダイムへの回帰するものだとして断固拒否した。その声音、その表情、机にかぶさるその長身の体躯には、救うべきものとして見出された思想へと傾注されるべきプリミティヴな熱情がまさに剥き出しとなっていた。その後、緊張を強くはらんだやり取りの末に導き出されたのは、破壊や死が有する一種の歴史性、たとえばバタイユの時代における死の意味と現代における死の意味の差異という、その重要性についてお互いが同意する論点であったが、大池氏は、そうした「生産的」なやり取り以前で作動する次元を身をもって垣間見せてくれた。
本パネルで扱われたのは、エコノミーという茫漠たる概念が指し示す広大な諸領域のうち、ごく限られたわずか三つのトピックにすぎない。そして発表を通して明らかになったのは、孤立したエコノミーというものは存在しえず、そこにはつねに複数のエコノミーしか存在しない、ということであったように思える。一つのエコノミーについて論じようとしても、そこには別のエコノミーがつねにすでに貫入している。本パネルで扱われた三つの発表を振り返ってみても、一見まったく異なった次元のエコノミーについて論じているようでありながら、様々な点で実は接続しあっている。その接続関係を解きほぐすだけでも、相当に繊細で粘り強い議論が尽くされる必要があるだろう。そしてなにより、語られるべきエコノミーはまだいくらでもある。エコノミーをめぐるパネルが、今後も継続されることが強く望まれる次第である。
【パネル概要】
「生」に奉仕すること、自己の生を進んでデザインし、豊かにし、できるだけ延命させること ── 、個々の生がこのように「営まれる」ことは、単なる経済の仕組みを越えた「資本主義」という一つの体制においてはっきりと推奨されているように思われる。だが、個体の関心がすぐさま自らの「生」へと向かうよう促される一方、20世紀前半と終わりにそれぞれ発展したマス・メディアとデジタル・テクノロジーにより、個別の認識や経験がメディア環境、技術環境の内にあらかじめ取り込まれ管理される傾向はさらに強まっている。それが意味するのは、自己の「生」を富ませようとする個々の活動が、かえって固有性を欠いた付和雷同の群れの再生産へと収束するという事態である。
本パネルは、個体を「生」へと向かわせつつその固有性を譲渡させるこの巨大な生産・配分・管理の循環を複数の視点から問題化することを通じ、この〈エコノミー〉の内に置かれた「人間」が、なおどのような(不)可能性であるのかを問うてみたい。
谷島はスティグレールの技術哲学を通じて、コミュニケーションやネットワーク技術の飛躍的な発展をむしろ「特異性のエコノミー」へと繋げる可能性を検討する。大池はバタイユの「一般経済」をボードリヤールの消滅の思想により再解釈し、「生」を至上価値とする思考そのものの可逆性について論じる。荒谷はラカンの哲学的再読によって資本主義固有の「ディスクール」の姿を分析しつつ、その構造に変化・転換をもたらす契機について考察する。
スティグレールのメディア・コミュニケーション論
── 意識と特異性をめぐって
谷島貫太(東京大学)
テクノロジーに徹底的に取り巻かれた現代にあって、「私」と世界の「特異性singularité」を思考するにはテクノロジーから出発せねばならない。この点でベルナール・スティグレールは、デリダが『グラマトロジーについて』で展開させた痕跡論を技術論として継承することで、この課題に応えようとしている。ただしデリダの場合とは異なり、そこではテクノロジーを通して構成される意識の在り方が問題となる。本発表はスティグレールの哲学を通じて、メディアが意識の流れを占拠することで生み出される画一的な「みんなOn」を、再び「個」へと向かわせるプロセスの条件について論じる。
スティグレールはシモンドンの「個体化individuation」や「横断-個体化trans-individuation」の概念を読みかえることで、独自のメディア・コミュニケーション論を展開した。そこでは意識は、外在化された記憶(痕跡)に潜む「前‐個体的なものpré-individuel」を現勢化させる、個体化プロセスの突端として位置づけられる。意識や社会をめぐる個体化に関するシモンドンの議論が、具体的な記憶/記録環境としての技術的諸条件のなかに明確に置き直されるのだ。
最終的には、記憶をめぐる物質的配置と節合するそのつどの意識の「今」において、記憶の「固有言語的なidiomatique」織物として出現する特異性の可能性を提示したい。そのことによって、技術的に媒介された意識を通して特異性が連鎖していくという、特異性のエコノミーの姿が浮かび上がるはずである。
「生産」の可逆性
── バタイユにおける「一般経済」と消滅の技法
大池惣太郎(東京大学)
人間が自己にとっての功利性と有意味性の内部でしか思考しなくなることを常に批判し続けたバタイユは、戦後の主著『呪われた部分』(1949)において、自閉したエゴイズムの対極として、余剰な富を消費することを社会の潜在的な目的と捉える「一般経済」(économie générale)を唱える。「呪われた部分」の理論として知られるこの思想は、祝祭的な「非生産的消費」の機能を説明した経済理論などではなく、何よりまず「富」や「有用性」を消費されるべき「負債」とみなすことで功利性に基づく現実原則を反転させる、ニーチェ由来の価値転倒の試みであった。「一般経済」は、いわば富の生産と蓄積への志向とは逆転した視点において捉えられた世界の秩序(エコノミー)なのである。
バタイユの「一般経済」が持つ「視点の逆転」という側面は、多くのバタイユ研究においては見落とされている。それに対し、バタイユの異質なまなざしを継承し展開されたのがジャン・ボードリヤールの仕事である。彼は主著『象徴交換と死』(1976)においてバタイユを、「死」を再び経済の中に取り入れることで「価値の象徴的取り消し」を論じた稀有な思想家として高く評価している。本発表では、バタイユとボードリヤールの思想的連関性を明らかにしつつ、ボードリヤールの視点から「一般経済」の射程を再考する。その作業を通じ、われわれの社会が根本的に欠く別種の社会原理の素描を試みたい。
構造転換の可能性
── ラカンにおける「四つのディスクール」の哲学的規定にむけて
荒谷大輔(江戸川大学)
「享受せよ」という無意識の指令を、資本主義体制における主体は、個的主体の趣味的な消費へ移し替え、そのことによってシステム内に自らの位置を得る。だが、そうした消費社会の主体は、ラカンによれば、生産手段としての知(ノウハウ: savoir-faire)を稼働させて剰余を産出しながら、手の先から零れ落としてその享楽をシステムに受け渡す。よく知られるようにラカンは、欲望の構造化において機能する四つのエレメント(S1,S2,a,S barré)の配置によって規定される四つのディスクールのうち、資本主義のディスクールととりわけ親和的なものを、「主人のディスクール」に見たのであった。
本発表では、しばしば、ラカンのテクストだけを根拠に上滑り的に語られるこうした説明図式の妥当性を、哲学の歴史的文脈と社会的現実性に照らして検討しつつ、ラカンの語るディスクール間の転換の可能性について考察したい。コジェーブ経由で参照されるヘーゲルの主奴の弁証法は、そもそも、市民社会的な主体の形成を論理的に記述するための図式であったが、それは実際、資本主義社会における主体の有り様を跡づけるものでもあった。ラカンにおける市民社会論の精神分析的読み替えを辿り直すことで、構造が変化する可能性の糸口を探っていきたい。
谷島貫太
大池惣太郎
荒谷大輔
佐藤嘉幸
大橋完太郎