研究ノート

指紋を通して見えてくるもの
橋本一径

人間のアイデンティティを表象する手段として、指紋が注目を集めるようになったのは、1880年代に入ってからのことであり、指紋を唯一の証拠として犯人が検挙される最初の例が現れるのは、20世紀を待たなければならない。人類が太古からその存在に気づいていたはずの指先の紋様に、同一性の指標としての価値が見出され始めたのが、近代と呼ばれる時代になってからであったという事実は、考察に値するものであるように思われる。

身体の細部を仔細に検討することで、人物の身元を割り出す。このような身元確認法の嚆矢となったのが、アルフォンス・ベルティヨン(1853-1914)の司法的身体測定法であったことは、比較的よく知られている。頭部、耳、手指、あるいは足のサイズを厳密に計測することで、身元を偽る再犯者の特定を目指したこのシステムは、「ベルティヨナージュ」の呼称を得て、フランスそして世界各国の警察で採用されるに至る。しかしフランシス・ゴルトンの仕事を皮切りに、1890年代から指紋の分類法が練り上げられていくと、複雑なベルティヨンの方式は次第に役目を奪われるようになる。1901年にはロンドン警察が、部分的に採用してきたベルティヨン方式を全廃し、指紋に一本化することを決定するだろう。

とはいえ身体は、指紋を待つまでもなく、もともとアイデンティティを語り続けてきたのではなかったか。例えば傷跡や入れ墨は、モルグ(死体公示所)において古くから、身元不明の遺体の特定に手がかりを与えてきたに違いない。あるいはそのような特殊な例でなくとも、髪や目の色を記した人相書き、顔写真、さらには街角で顔見知りの誰かを認めるときにも、決め手となるのはいつも身体なのだと言えはしないだろうか。しかしこうした「身体イメージ」には、自分や他人の姿を比較的容易に認めることのできたわれわれも、ベルティヨン方式における計測値、あるいは指紋では、たとえそれが自分のものであっても、そこに自己を見出し、さらには愛情や嫌悪の対象とするというのは、想像しがたいことだ。つまりそこにおいては、同一性(アイデンティティ)と、同一化(アイデンティフィケーション)の対象とが、決定的に乖離しているのである。

指紋の同一性とは、ただ単にその紋様が、誕生から死まで変化しないという意味での同一性である。その真偽は、警察の鑑識などにおいて、科学的な知見を備えた専門家の手によって確認される。その真理の立証に、指紋の持ち主自身が介入する余地はほとんどない。だからシャーロック・ホームズをはじめとする探偵小説は、指紋が実用化された当初から、身に覚えのない犯罪現場に残された指紋のせいで冤罪に問われる人物の物語を、数多く語ってみせるはずだ。

ならばわれわれは、指紋の到来とともに、アイデンティティの真理を、権力の側に奪われたということだろうか。そう述べることはおそらく間違いではない。しかしそもそも、われわれはアイデンティティの真理なるものを、自らの手中に収めていたことが、これまでにあったのだろうか。「お前は誰か」という問いを前にしたわれわれは、身分証明書などを提示することで、何らかの制度的な審級を後ろ盾にしなければ、自らの名乗る名の真理を証明することが決してできないのである。

言うまでもなく、われわれは生まれながらにして名を持つわけではない。名は例えば戸籍に書き込まれることによって、その真理を保証される。こうした象徴的な次元への参入を、生物学的な誕生に付け加わる人間の「第二の誕生」と呼び、人が人となるための重要な契機をそこに見たのは、ピエール・ルジャンドルである。

つまりアイデンティティをめぐって、ふたつの異なる真理が問題となっているのである。指紋によって表されるアイデンティティは、生まれながらにわれわれに備わった、肉としてのアイデンティティであり、その真理を保証するのは、生物学的な知見である。もう一方の、われわれが例えば鏡に映る自分の姿を見て、それが他ならぬ「私」であると認めるときのアイデンティティは、発達的に形成されるアイデンティティであり、その真理は、何らかの象徴的な審級によって保証されている。ミシェル・フーコーの言うように、哲学が「真理をめぐる政治」の問題であるとするなら、ここに賭されているのは、優れて哲学的な問題である。

同時にそれは極めてアクチュアルな問題でもある。入国管理の場をはじめとして、指紋やそれに類するいわゆる「バイオメトリクス認証」を求められる場面は、今後ますます増え続けることだろう。しかしそこから想像されるSF的な「管理社会」に対して、「プライバシー」という概念で対抗するとすれば、すでに生物学的な真理と一枚岩の同じ土壌の上に立ってしまうことになりはしないだろうか。重要なのは、「プライバシー」という、われわれに生まれながらに備わった権利のような何かを対置することではなく、生物学的な真理と、象徴的な真理との隔たりを見極めることである。そのためには19世紀フランスにおける、出生証明の医学化が、ひとつの手がかりとなるだろう。新生児を市役所へ実際に運んで戸籍の登録をおこなうという、教会での洗礼を起源に持つ、極めて象徴的な慣習が、医師たちの反対の声を受けて廃止されたとき、象徴的な「第二の誕生」の次元が、生物学的な誕生のうちに回収される準備が整ったのだと言えはしまいか。

フランシス・ゴルトンが、自らの著作『指紋(Finger Prints)』(1892)の扉を、著者自身の10本指の指紋で飾ってみせたときから、おそらくすべては始まっていたのだ。生物学的な同一性以外は何も表象しないはずの指紋が、あたかも著者の署名のように、ある種の美学を伴って、扇形にレイアウトされる。そこにもつれ合いながら流れ込んでいる様々な次元を、ひとつひとつ丹念に腑分けすること。今後もそれが私の研究にとっての指針であり続けるだろう。

橋本一径(東京大学・院)

フランシス・ゴルトン
『指紋(Finger Prints)』
(1892)扉