第1回大会報告 | 基調講演報告 |
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7月1日(土) 13:45-15:30 18号館ホール
基調講演:
ミハイル・ヤンポリスキー Mikhail Iampolski(ニューヨーク大学)
“Metaphor, Myth and Facticity”
表象文化論学会第一回大会の基調報告として語られたヤンポリスキーの講演 “Metaphor, Myth and Facticity” は、表象のあり方自体を問い直す刺激的なものとなった。
次から次へとに繰り出されるアドリブで講演はさながらジャムセッションと化した観があった。
ヤンポリスキーが問題にしたのは、facticity(「事実性」)と「表象」の関係であったが、「事実性」という言葉は、ときに「事物」や「リアリティ」と言いかえられ、また「マテリアリティ」という言葉とも交錯するため、なかなかそのポイントを押さえるのは容易ではない。
むしろ「事実性」と「表象」の関係でいうなら、講演の途中でふれられた「もの・事物(thing)」と「商品(commodity)」に置き直してみたほうが分かりよいだろう。商品というのはブランドが幅をきかせ、それなりの値段がついて流通する。それにたいして「もの」は価格に翻訳されえない何物かだ。商品が素材を非素材化(dematerialize)し、純粋な交換価値の担い手に転化してしまうのにたいして、「もの」はひたすらマテリアリティに依拠し、交換価値に変換されることはない。
ヤンポリスキーによれば、「表象はリアリティ(もの)を二重化する」。つまり表象とはある種の「反復」なのだが、リアリティ(もの)の本質は単独性にあって、けっして反復されえない。「リアリティは記述(反復)されることによって、その事実性、マテリアリティを失って」しまうのだ。ここから「リアリティは表象不可能なものとしてしか提示されえない」という命題がみちびかれる。事実性、あるいはリアリティはわれわれにじかに与えられない、事実性は直接的にではなく間接的、言葉をかえれば、ある種のズレのなかに立ちあらわれる。そして、一義的に対象を固定してしまう「名づけ」とはことなり、こうしたズレを生じさせるのがメタファーなのである。
ヤンポリスキーは講演の冒頭近くでロシア・フォルマリストの理論家で作家のシクロフスキーの『手法としての芸術』に言及する。曰く、「芸術の目的は事物をまざまざと感じさせることにある。事物をそれとして再認させるのではなく、事物をまざまざと注視させるのだ」、「芸術とは事物が作られる過程を体験する方法であり、作られたものは芸術においては重要ではない」。その方法とは知覚を困難にし遅延させるもので、具体的には「フィギュール」、すなわち比喩や直喩、反復、対称、引き延ばし、誇張などの手法がこれにあたる。これらはすべて、事物なり対象を直接的に名指すのではなく、対象とのズレを媒介とすることによって、対象に迫ろうとするものだ。
そしてまさにこのズレによる知覚をテーマにしているのが、この講演の隠れた主題の一つであるシクロフスキーの『ツォー』という作品だ。当初シクロフスキーは1922年のベルリンにおけるロシア人亡命者の世界の記録を書こうとした。それには共通したテーマがあったほうがいい。それで選ばれたのが「動物園」という主題だ。だがそれでは個々の要素を結びつけることは難しく、シクロフスキーは書簡体小説という体裁を構想した。
ところで手紙を書くには動機付けが必要である。愛と別れという動機付けがそれにふさわしいだろう。ただしここでもシクロフスキーはさらにひねりを加えている。愛を語ってはならないという禁止。恋愛小説でありながら、愛を語ってはならないという背理。ここからこの作品に記される言葉はすべてフィギュールと化す。事実性は非現実化され、仮装が事実化される。事物の記述はことごとくその事物を非実体化させるのだ。
かくしてシクロフスキーが描き出すベルリンはありもしないベルリンと化す。不一致とズレを基本とするメタファーによって浮かび上がるベルリンは、一義的な名づけによって切り取られる事実としてのベルリンではなく、事実の本質とでもいうべき「事実性」をあらわにしていくのだ。ヤンポリスキーはそれを「ベルリンはメタファーのなかでリアリティと事実性を獲得する」と語っている。
もちろんメタファーは事物には到達しえない。比喩的に記述された事物は事物そのものではなく(ここで表象がリアリティの二重化であると定義されていたことを思いだしておこう)、事物に接近しようとすればするほど、ダイナミックな比喩の交替を誘発する。ヤンポリスキーはこれを「フリッカリング」と名づける。たえまない比喩の交替による、無限のズレの増殖。もはやここには安定した知覚などはありえない。古典的な認識・知覚のモデルが依拠してきた主体/客体、現前/不在、リアリティ/見せかけといった対立は一掃される。リアリティの二重化でしかない古典的な表象はこうして乗り越えられ、あらたに構成される「二次的な事実性」が台頭する。ヤンポリスキーはニーチェやカッシーラー、ヴャチェスラフ・イワーノフを援用してこれを「神話」と呼ぶ。そしてこの「神話」こそ、あらゆる表象的な差異を飲み込んだ純粋なリアリティのありかであるというのだ。
「表象」から「神話」へ――それは交換価値=表象に飲み込まれた「商品」を廃棄し、「事物」に回帰しようとした1920年代ロシアの生産主義者の志向を思い起こさせる。ヤンポリスキーはこの講演で新たな生産主義者としての顔を見せたのかもしれない。
浦 雅春(東京大学)