第1回大会報告 パネル4

7月2日(日) 13:00-15:00 / 15:30-17:30 18号館ホール

パネル4:スクリーンの近代――遮蔽と投射のあいだで(1)(2)

スクリーンとしての主観性――表象の可能性の条件としての身体/加國尚志(立命館大学)
イメージか、スクリーンか――ジャック・ラカンにおける鏡・表面・枠/原和之(東京大学)
映画スクリーンと観客の身体/長谷正人(早稲田大学)
メディアアートとスクリーン/草原真知子(早稲田大学)
「見ること」の不安と白い壁――モダニズム再考へ向けて/鈴木貴宇(東京大学)

【コメンテーター】高山宏(首都大学東京)
【司会】小林康夫(東京大学)

パネル4「スクリーンの近代――遮蔽と投射のあいだで(1)(2)」ではコメンテーターに高山宏氏を迎え、小林康夫氏の司会のもと、4時間半以上にわたる発表と討議が行われた。われわれは「スクリーン」と聞くと映画を思いうかべることも多いが――あるいは、漫画を描くときに使うスクリーントーンや、ウォーホールやラウシェンバーグも使用した版画のシルクスクリーンを想起するだろうか――、このパネルは個々の映画作品の分析に焦点を当てたわけではない。むしろ、遮蔽と投射の間に明滅する「スクリーン」という概念の「襞」を、能うかぎり押し拡げることによって、「近代の条件としてのスクリーン」を再考する試みであった。

各発表の内容は簡単な要約を許さないが、報告者の曖昧な記憶の「スクリーン」に辛うじて点滅する痕跡を記しておきたい。第一発表者・加國尚志氏はモーリス・メルロ=ポンティの欲望の「襞」に細密に分け入ろうとしていた。「もはや一人ではないが、二人でいることにも困難がある」「ナルシスの破砕」(ポール・ヴァレリー)のあと、画家に塗り残された「白」のなかでの出来事のように、「森の声」と「水の声」だけを残響させようとするメルロ=ポンティ。欲望の問いを受継いだ第二発表者・原和之氏は、ジャック・ラカンの示す「スクリーン」の変位を丁寧に解読していった。「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」(1949)の想定する平面鏡を、平面鏡と凹面鏡を組み合わせたシェーマに変形することによって、〈わたし〉の形成をめぐる欲望の不安性を強調する1954-60年のラカン。さらには、ホルバインの絵画『大使たち』のアナモルフォーズが明滅するごとく、主体の死と欲望が交差する「スクリーン」を描き出した『精神分析の四基本概念』(1964)のラカン。

第三発表者・長谷正人氏は、映画の「スクリーン」――観客を矩形の「スクリーン」に暴力的に束縛する――と、映画以後の「小さなスクリーン」――束縛から解放する代わりに「濃密な想像世界」を体験させることもない――の両者に対するアンヴィヴァレンツを率直に語り、後者のなかに前者の「濃密な想像世界」を回復させる「遊動空間」の可能性を示唆した。この「遊動空間」へのベクトルは、第四発表者・草原真知子氏の活力あるメディアアート論へと受継がれ、映画の「スクリーン」のなかから観客に向かって「飛び出す映像」ではなく、観客が「スクリーン」のなかに「飛び込む映像」の目眩く諸相――会場の佐藤良明氏からはドラッグとの関係を指摘するコメントも飛び出した――に、パネル会場も半ば「没入」した記憶がある。第五発表者・鈴木貴宇氏は再び「没入」から引き返し、戦間期の「危機」の時代における「視覚の混乱」の最中、〈わたし〉の存在の不安を「白い画布」・「白い壁」に投射すると同時に、「白」に「視覚の解放」を欲望する中井正一を浮かび上がらせた。

このパネルから改めて投射された――しかし、隠蔽されたわけではない――問題のひとつは、「近代の条件としてのスクリーン」という根本的な問いであろう。表象・投射する垂直的「スクリーン」から作業・操作する水平的「スクリーン」への歴史的転換を抽出したレオ・スタインバーグの論文「他の批判基準」(1972)、あるいは、1880年代から映画の「スクリーン」の彼岸を透視することを試みた松浦寿輝氏の『平面論』(1994)、あるいは、背後の「大きな物語」を主体が読みこむ近代の「スクリーン」から、「大きなデータベース」によってコントロールされるポストモダンの「スクリーン」へのシフトを論じた東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(2001)が投げかけた問いである。そもそも、われわれは「スクリーン」と「近代」との関係を、今ここで、いかなる欲望において表象・上演しようとするのか。「ピクチャレスク美学」――世界をフレームのなかにタブロー化しようと欲望する近代美学――と「アンチ・ピクチャレスク」の往復運動を、偏愛的参照点として堅持したコメンテーターの高山宏氏から絶えず投射されたこの問いは、パネルのハイライトの一つであった。「啓蒙とは何か」(1984)のミシェル・フーコーを変奏して言うならば、「スクリーン」の「歴史的存在論」「批判的存在論」のエートス――われわれが今のように「スクリーン」を欲望・認識・使用することになった歴史的・偶然的な条件の抽出から出発しながら、われわれ自身と「スクリーン」との関係が今のように在り、今のように欲望・認識するのではもはやないような可能性を探求する態度――が、より厳しく問われることになる。今後の継続した議論が待たれるところであろう。

榑沼範久(横浜国立大学)

パネル概要

スクリーン、それは向こう側の世界から主体を遮るとともに、逆に主体の背後の世界を映し出す支持体としても機能する存在物である。そのように遮蔽と投射という二重の規定を被っているスクリーンという形象は、その本性上、概念=装置として存在を露にした瞬間に、数々の表象の背景へと引き下がってしまうだろう。スクリーンの消滅とともにもたらされるのは、現実と表象の間、イメージと知覚の間の、乖離とはいえないほどのズレやブレ、それらの同一性への抵抗である。例えば夢の形象を映し出すスクリーン、シュポール/シュルファスとは一歩ずれたところで絵画表象を成り立たせているスクリーン、あるいは、ナラトロジーで汲み尽くし得ない語りの支持体としてのスクリーン。そして、もちろん映画のスクリーン。スクリーンは、様々な具体的な事例に則して近代の経験に姿を現し、同時に消え去ることで、近代における知覚のあり方を根源的に条件づけているのではないだろうか。本パネルはこうした問いに導かれながら、領域横断的な発表と討議により、近代の条件としてのスクリーンについて再考する試みである。 (パネル構成:小林康夫・根本美作子(明治大学)・門林岳史(日本学術振興会特別研究員))

「スクリーンとしての主観性――表象の可能性の条件としての身体」
加國尚志

「世界はもはや表象によって彼(画家)の前にあるのではない」(『眼と精神』)。画家の身体について語るこうしたメルロ=ポンティの言葉から暗示されるのは、近代の哲学的思考の枠組みにおける「表象」概念の危機、そして、その境界線における表象芸術家の身体の問題である。本発表では、セザンヌの塗り残しやクレーの色班などについてメルロ=ポンティが遺した断片をもとに、こうした表象可能なものと表象不可能なものの交差配列的で両義的な関係を読み解いていきたい。そこから、私たちは表象芸術家の身体を問題にすることによって、表象の危機が表象の単純な否定を意味するものではなく、表象の境界をめぐるより繊細な概念の準備を哲学に要求していることを見ることになろう。

「イメージか、スクリーンか――ジャック・ラカンにおける鏡・表面・枠」
原 和之

ラカンは鏡像段階を主たる参照先とした初期の議論のなかでイメージの機能を主体の構造の中心に据えたが、ついでこれを言語的な関係のなかで再規定しようとするなかで、スクリーンの果たす役割を前景化するよう導かれて行く。本発表では1950-60年代のラカンの視覚装置をめぐる議論を、イメージの成立条件としてのスクリーンの発見から、スクリーンの構成そのものを主体性の一契機とする構想へ向かう過程として位置づけつつ、そこから帰結するスクリーンとイメージの反転可能性が、表象をめぐる議論においていかなる含意を持ちうるかを考察する。

「映画スクリーンと観客の身体」
長谷正人

映画という近代的な表象装置において、スクリーンと映画観客の身体はどのような関係に置かれてきたのか。スクリーンというフラットな矩形に投影された不自然なイメージを、映画観客はどのように受容してきたのか。こうした問題を本報告では、映画スクリーンが映像文化の象徴的地位から転落し、代わってコンピュータースクリーンが銀行のATM、駅の自動販売機、ビルの壁面、ケータイ電話など社会のあらゆる場所に増殖し、都市空間自体がスクリーンなきイメージとしてわれわれの身体を取り囲むような現代社会のありようと対照させながら考察したい。

「メディアアートとスクリーン」
草原真知子

メディアアートにおいて「スクリーン」は多くの場合、もう一つの世界の膜あるいはサーフェスとして表れる。スクリーンから何かが飛び出してくるイメージが映画の原点であったのに対して、逆にスクリーンの中へ飛び込む感覚がバーチャルリアリティやサイバースペースのイコノグラフィーとなった。一方、インタラクティブ技術はその「窓」を可変かつ触覚的なものへ、さらに平面から三次元的なものへと変化させつつある。スクリーンのこちら側とあちら側との関係がどのように設定され、あるいはどのように感じ取られるかについて考察する。

「「見ること」の不安と白い壁――モダニズム再考へ向けて」
鈴木貴宇

本発表は、昭和初頭に活躍した中井正一の批評を軸に、いわゆる「モダニズム」の時代と括られる1920年代後半から1930年代前半の社会および文化状況の分析を試みるものである。その中でも中井の建築論に焦点を当て、関東大震災の衝撃から復興し、かつ新たに登場した「都市」の様態と、そこで繰り広げられたであろう人々の生を抽出する。中井は近代建築に用いられた「白い壁」とガラスという建材に新たな視覚の可能性を見たが、そのとき人々が見ようとした光景はどのようなものであったのだろうか。堀辰雄、江戸川乱歩、そして小林多喜二らの小説群とともに、上述の問題を考えていく。