研究ノート |
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不可視の過去を可視化すること
──ピラネージによる古代形象の「考古学」的復元手法
小澤京子
18世紀後半のローマで活躍した銅版画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi, 1720-78)は、迷宮じみた無気味な空間を描いた『牢獄』や、古代ローマの景観を想像的に再構築した『ローマの古代遺跡(アンティキタ・ロマーネ)』などの「紙上建築(ペーパー・アーキテクチュア)」で知られる。当時より奇想(カプリッチョ)の語が冠されることの多かったその奇怪な空間表象は、しばしば「幻想」という言葉で詩的に讃えられ、あるいはまた、破壊的にポレミカルな挑戦として、新しい認識枠組の到来を告げるような決定的な逸脱として、過剰なまでの神話化がなされてきた。
『牢獄』のイメージは、ヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザック、エドガー・アラン・ポーといった19世紀の文学者たちや、ロシア・アヴァンギャルドの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインらに霊感を与えてきた。その風潮は近年まで受け継がれており、その一例として、マルグリット・ユルスナールによる唯美的な随筆『ピラネージの黒い脳髄』を挙げられるだろう。ユリア・フォークト=ゲクニルは『牢獄』の空間を「組織体の解体」、「中心性の喪失」と規定し、マンフレッド・タフーリは「カプリッチョ(奇想)」と名指された都市空間を、アヴァンギャルドのモンタージュを予告するような、「破壊的作業」によって生み出された「ヘテロトピア(非在郷)」と名指している。
一方で、彼の作品群やその背景にあるコンテクストも、実証的アプローチに基づく歴史研究により解明が進んでいる。代表的な研究者は、カタログ・レゾネの編纂者であり、ピラネージについての数々の論考を表しているウィルトン=エリーであろう。版画作品の制作・改訂時期や描画対象なども、次第に確定されつつある。
描かれた都市・建築空間の特異性を措いても、ピラネージの作品は様々な問題を内包しており、それは多用な解釈を呼び寄せることとなる。古代ローマの地図の復元や都市景観の再現という、半ば考古学的、半ば空想的な作業がもたらした特異な時間性――過去の想起におけるアナクロニズム――については、田中純やスーザン・ディクソンらがフロイトを引きつつ論じている。また、バーバラ・M・スタフォードは、18世紀の廃墟趣味と同時代に発達した解剖学図、さらに銅版画というメディアの通底性――表層を傷つけ内部を露呈させる――を指摘する。彼女の理論を援用しつつ、ピラネージやその同時代の「紙上建築」家たちの、建築の外部空間と内部空間、表層と内奥とをめぐる、単純な二項対立や弁証法には解消できない関係を論じたものとしては、拙稿「都市の解剖学――剥離・切断・露出――」(『10+1』40号、2005年所収)がある。また、作品内に頻出する「捲れる紙」というモティーフに注目し、「紙」や「文字」に対するピラネージの熱狂を指摘する著作(高山宏)や、銅版画の加刻プロセスの物質性に着目した論考(中谷礼仁)も存在する。このような指摘も参照しつつ、彼の描画空間における絵画の「パレルゴン」と総称されるモティーフ――イメージの入れ子構造や「描かれた文字」というテマティック――について検討したのが、拙論「インスクリプションとメタ・イメージ――ピラネージにおける石碑と碑文」(美学会全国大会口頭発表、2005年)である。
ピラネージは、生前よりすでに好評を博した銅版画家であり、そして彼自身の自己規定の上では常に「建築家」であったのだが――実現した建築作品は2件のみであるにも関わらず、彼は署名としてしばしば「建築家ピラネージ(Piranesi, Architetto.)」と記している――、それと同時に「考古学者」でもあった。画業の前期には、ビビエナ流の舞台デザインやフィッシャー・フォン・エルラッハ風の空想的都市景観画の流れを汲み、虚構性の強い作品を手掛けたピラネージだが、次第にローマの古代遺跡や古遺物断片、古代地図の復元図を志向するようになる。彼が活躍した時代は、ヘラクラネウムやポンペイなどローマの古代遺跡の学術的な発掘が開始され、ルネサンス以来の「古遺物愛好」の伝統という土壌のうちに、科学的な学問体系としての「考古学」の萌芽が見られた時期であった。ヨーロッパ貴族たちによる「グランド・ツアー」の慣習は、黎明期の考古学が一般の愛好家の間にも浸透する一助となり、また古代遺跡を描いた絵画作品の市場での需要を支えた。このような「古代熱」のなかで、古代ギリシアの形象の中に人類の偉大なる理想を見いだす「ギリシア派」の論客たちに対し、ピラネージは「ローマ派」の先鋒として対峙した。
私の現在の関心は、ピラネージを同時代性とは切り離された唯一独創的な存在に祭り上げ、後代の前衛的思潮の先駆者として礼賛することではなく、むしろ彼を同時代の文脈に送り返しつつ、その特異性を探ることにある。その際に浮上してくるのが、この「考古学者」としてのピラネージの姿なのである。彼は古代的形象の発掘と展示を、紙上でいわば代理的に行った。それは、「理想都市」や「ユートピア」を構想する未来的、あるいは非時間的なプロジェクトでもなく、廃墟や遺物断片をそのままの不完全さにおいて描写する、前世代の廃墟画家(ロヴィニスタ)たちの作業ともまた一線を画している。
「古代」とは、断片や痕跡として残存しつつも、その全き姿は見ることのできない対象であり、廃墟化した遺跡や時の手に打ち砕かれた古遺物を通して想像的に「復元」されるばかりである。このような「復元」の作業を、過剰なまでに突き詰めて行なったのが「考古学者」ピラネージだったのだ。古代ローマという過去の(集合的)記憶を呼び戻し、それを視覚的な形象として二次元上に配置し定着させるときの、ピラネージ特有のやり方を分析すること。それが私の研究の柱のひとつである。
新古典主義と総称される思潮のなかで、「古代」は真正なる起源として措定されていたが、しかしそこで想定されていたのは決して単一のものではなく、むしろ多種混淆的、ないし錯乱的な起源であった。ギリシア、ローマ、エトルリア、エルサレム(ユダヤ=キリスト教的起源としてのソロモン神殿)、エジプト(ギリシア・ローマに先行する始源であり、かつ西欧にとってエキゾティックな他者である地)など、論者によって異なる地域・時代が挙げられている。さらには「古代の形象」はしばしば、これらの異なる「起源」がキマイラ的に混淆した形で描かれた。複数の「真正なる起源」が創造(あるいは捏造)され、そしてずれや歪曲、混淆や重合を孕みつつ増殖していく様は、この時代の古代志向にしばしば見られるが、それがもっとも顕著に現われ出ているのが、ピラネージの描く古代景観である。「古代」という本来は不可視の、あるいは非在といってもよい点がイメージ化されるとき、いかにして畸形的・キマイラ的な形象を生み出していくのか、その過程をピラネージにおいて精緻に探ることが、私の研究のもうひとつの柱となっている。
小澤京子(東京大学・院)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ
「ローマの地図」
(『ローマの古代遺跡』第1巻)