第1回大会報告 対談「人文知の現在」:対談を終えて」

知のフットボールのために──浅田彰氏との対談を終えて 松浦寿輝(東京大学)

7月1日(土) 15:45-17:15 18号館ホール

対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学)
「人文知の現在」

対談でも言ったことだが、わたしの眼に浅田 彰氏は、「知のフットボール」の世界選手権に参加して戦う日本チームの布陣において、さしずめ攻撃的ミッドフィールダーすなわち司令塔と映っている。相手方のパスを遮断して自分のものにしたボールを、すばやくジグザグにドリブルし、一人、二人、三人と抜き去って、いきなり鋭く長いパスを出す。このパスがなかなか一筋縄で行くような代物ではない。俊足をもって鳴るフォワードの面々も、まずたいていのところは追いつけず、シュートの機会を空しく逃してしまう。浅田氏は無表情のまままた新たにボールを追いはじめるが、なぜあれに追いつけないのか、あれに追いつけないかぎりシュートの機会など永遠にめぐってくるまいと、内心ではチッと舌打ちしているに違いない。一方、フォワードはフォワードで、いきなりあんなところに蹴り出されても困る、そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだという憤懣を抱く者もいないではない。

ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。

四方田犬彦や伊藤俊治と雑誌『GS』を始めたとき、浅田氏はまだ二十七歳くらいだったはずである。「ニューアカ」などと蔑称される二十年前の知的風土は、なるほど軽薄と言えば軽薄、卑俗と言えば卑俗であったが、しかしそこには少なくとも、大学をもジャーナリズムをも巻き込んで制度に幾つもの風穴を開け、そこから新鮮な風を呼び入れようという勢いだけはあった。手堅い研究発表で業績を稼ぎいい子、いい子と褒められたいなどとは彼らの誰も思っておらず、ただ華麗なゲームを組み立てて満場の観客を唸らせたいという野心にのみ突き動かされ、ときにいかがわしい香具師や曲芸師を演じることも恐れずに、とにかくフィールドの端から端まで度胸よく、全力疾走しつづけていたのである。

浅田 彰の衣鉢を継ぐ攻撃的ミッドフィールダーが若い世代から出てくるべきだと思う。むろん、往時と今では様々な条件が異なっていることはわかっている。これまでにないような陰鬱な閉塞状況があたりを覆い尽くしているのに、それを閉塞とも逼塞とも感じさせない巧緻な力学が働いて、若い世代を萎縮させている。社会は大学に目先の有用性のみ求め、人文科学は徹底的に馬鹿にされている。浅田氏自身誰も拾ってくれないパスを出しつづけることにいささか倦んで、後退戦に入りかけているようにも見える。だが、だからこそ、である。こんな時代だからこそ、的確な状況認識と気宇壮大なヴィジョンを併せ持った知的リーダーが二十代、三十代の若い知識人の間から出現しなければならない。

対談で浅田氏は、翌日に予定された研究発表パネルの要旨を見るかぎり、既成のパラダイムの中で動いているにすぎないという印象を否めない、という趣旨の発言をされたが、これもまた彼の出した攻撃的なパスの一つなのではあろう(「攻撃的」というのは敵に対してのみならず、味方に対してもということだ)。ただ、このボールを受けてくれる味方のプレーヤーは誰もいまい、いるはずがあるまいという諦念とともに蹴り出された、やや自棄的なパスのようにわたしには感じられた。

現在の若手研究者の思考を拘束するほどの強力なパラダイムが、今日あるのかどうかは甚だ疑問である。かつては駒場の「映画論」の授業でレポートを書かせると、蓮實重彦氏の文章の拙劣な模倣が続出して辟易したものだが、今では「映画の表層と戯れる」といった類の論文はすっかり払底してしまい、それが良いことか悪いことかは軽々には断定できない。わたしに迫ってくる印象はむしろ、もはやパラダイムは崩壊したというものだ。かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。それは日本のみならず世界的な現象でもある。この停滞状況にいささかの活力を吹き込むために、「表象文化論学会」にいったい何ができるだろうか。

松浦寿輝(東京大学)