研究ノート |
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イタリア未来派のバレリーナ、ジャンニーナ・チェンシ(1913−1995)
横田さやか
1909年の「未来派創立宣言」以降、未来派が、文学、美術、音楽、建築等に運動を広げていく過程で、遅蒔きながらダンスもその実験材料となった。時を同じくして、ディアギレフ率いるバレエ・リュスが、クラシック・バレエの金字塔を脱してパリを皮切りに公演を開始していた。概念が先に生まれた未来派のダンスは、このバレエ・リュスとわずかに絡み合う機会を境に形を取り始め、やがて独自の舞台作品となる。ここで、ひとたび舞踊史の側から未来派のダンスをみてみると、その存在はほとんど取り上げられていないことに気付く。しかしながら、未来派のダンスには20世紀の舞踊に貫通する見過ごすことのできない先駆性がある。その特徴は舞踊のモダニズムに組み込まれるに値するはずだ。
筋肉の可能性を超越し、ダンスにおいて、われわれがかねてから夢に見てきたあの理想的なモーターによって増大した肉体を目指さなければならない。
身振りによってモーターの動きを模倣し、ハンドル、車輪、ピストンに絶えず尽し、そうして人間の機械との融合に備え、未来派ダンスの金属主義へ到達しなければならない。
——F・T・マリネッティ「未来派ダンス宣言」(1917年)より
バレエ・リュスのローマ公演にてジャコモ・バッラが衝撃的な舞台を演出し(【図版1】参照)、それに弾みをつけてマリネッティが「未来派ダンス宣言」を発表したのは、1917年、「未来派創立宣言」から8年後のことである。その後、機械のための舞台作品がつくられ、そして、遂にバレリーナによって―機械ではなく身体そのものによって―未来派が踊られるまでには、さらに14年の時を待たねばならない。ジョルジョ・デ・マルキスの区分に従えば未来派後期以降、もはや第二世代へ引き継がれてからのことである。この<遅さ>は、未来派があらゆる人間中心主義を否定していたために、ダンスと未来派を結びつけるはずの身体を表現媒体の主体とする機会を退けていたことに起因する、とジョバンニ・リスタは指摘する。それゆえ未来派は、同時代のダンスに共感することもなかった。エミール・ジャック=ダルクローズや、ルードルフ・フォン・ラーバン、イサドラ・ダンカンらは、たとえそれらのダンスが伝統を覆す新しさを有していたにしても、退行的でしかないとみなされていた。
自然を人工的造形物によって再構築しようとしていた未来派にとって、身体性は、まっさきに排除され、機械に置き換えられるべき対象であったから、代わって舞台にあげられたのは、装飾にすぎなかった舞台装置から舞台の主役へと昇り詰めた<造形複合体>である〔図版1参照〕。ダンサーの参加する作品にあっては(【図版2】参照)、身体に課せられた役目は機械の動きを模倣することであり、ダンサーは黒子となって機械を作動させる為の<モーター>に扮したまでだった。
そして1931年、バレエのテクニックを利用して<何か新しいもの>を創れないかしらと考えていたひとりのバレリーナがマリネッティと出会う。17歳のミラネーゼ、ジャンニーナ・チェンシである。近代化されたパリの街に感化されて<何か新しいもの>を希求しながら帰国したときのことだった。彼女に未来派的なダンスの具体的な構想があったわけではない。クラシック・バレエに退屈して未来のダンスとなる<何か>を欲していたところ、マリネッティの《航空詩》にのせて踊ってみたいとひらめき、ここに初めて未来派のバレリーナが誕生することになったのだ。チェンシは30日間で国内28都市を回るマリネッティの巡業に参加することになった。この巡業から生まれたのが、《航空ダンス》である(【図版3】【図版4】参照〕。この新しい試みのために、チェンシは実際にアクロバット飛行を体験させてもらい、空中で恐怖と興奮を味わい飛行機を降りるや、振付けの構想が浮かんだ。飛行そのものと空を飛ぶ飛行士の新しい身体感覚を踊りで表そうと決めたのだ。飛行士が機内で感じることを自分がダンスに表現することは素晴らしく、新しいことだという自負がチェンシにはあった。
《航空ダンス》は、トウ・シューズを履かず裸足で、マリネッティによる詩の朗読にのせ、繰り返されるオノマトペと飛行の爆音を思わせる音の高揚に合わせ、踊られた。両腕はプロペラのようにぐるぐると力強く回され、ときに両翼となって大きく広げられる。アラベスクのポジションやジャンプを多用し、まさに全身で飛行機そのものになりきっている。途中、片翼が折れ、減速し、最後には墜落してしまう。《瀕死の白鳥》さながらに、地に伏しておしまいとなる。この類似はおそらく偶然ではない。パブロワと同じくチェッケッティに師事し、チェンシ自身が《白鳥》という作品も創っていることから、飛行機が墜落して終わる演出と、白鳥が弱々しく羽を落とし伏せるあの終わり方とを意識的に、あるいは無意識的に、重ね合わせたのだろう。
写真に残されている衣装を見ると、ほとんどレオタードに近く身体のラインがすっかり露になるもので、他には飛行士のヘルメットをイメージした光沢のある同素材の帽子を被っているだけだ。プランポリーニの案によって身体にガス・チューブを巻き付けて踊ったこともあった。だがそれでは自由に手足を動かすことができない。それまでの未来派のダンスのように四肢を円柱で覆われたりするのは嫌だった。チェンシにとって身体の動きを妨げるものは一切要らず、メタリックな衣装ひとつで機体を模倣するに足りたのだ。かつてダンカンが裸体に近い姿で踊り人々を驚嘆させたように、この衣装もまた、観客の野次や称賛を巻き起こすのにうってつけだった。後にバランシンがレオタードのみで動きの美しさと視覚性を強調した作品を生み出すまではまだしばらく時を待たなければならない。この衣装は、舞踊のモダニズムにおいて舞台から無駄な装飾が排除される先駆けであったと言えるだろう。
ここで、同時代のバレエ界のうごきを見てみると、1929年にディアギレフが死去し、そのバレエ団はバレエ・リュス・ド・モンテカルロとして海外公演を開始していた。バレエ・リュスにも参加し、代表作である《瀕死の白鳥》で世界中を魅了したアンナ・パヴロワは31年に他界した。ディアギレフ亡きあとも作品を作り続けていたジョージ・バランシンがヨーロッパを離れ、半世紀をかけて偉業を成し遂げる街、ニュー・ヨークへ渡るのは33年のことである。まさにクラシック・バレエが遠心分離し始めていたときだった。
ただし、これ以降チェンシが未来派のバレリーナとして踊ることはなかった。肉体的疲労とケガ、そして金銭的な問題から未来派を離れ、皮肉にも古代ギリシア風バレエの公演へ参加した後、現役を引退し指導者になる。未来派のダンスをもう踊らなくても、将来なにがしか未来派らしいものは自分の人生に残るだろうと信じていた。そして若きときのその思いは、自らのバレエ教室の教え子によってかたちとなった。教え子が未来派のダンスを踊ってみたいと進言し、チェンシの振付け指導のもと再演されるにいたったのだ。また、幼いときにチェンシの指導を受けたパフォーマー、ピエル=パオロ・コスによる《未来派の夕べ》の再現パフォーマンスでも、《航空ダンス》が踊られている。チェンシ自身の踊る姿が撮られた映像は消失しており、現在その振付けを確認できるのは、かれらが再演したときの映像のみである。
未来派創立100周年の節目を目前にして、チェンシによるダンスは、舞踊におけるモダニズムの先駆けとして再考察される可能性を多分に秘めている。
横田さやか(東京外国語大学)
【図版1】1916年バレエ・リュスローマ公演におけるストラヴィンスキー作曲《花火》のためのジャコモ・バッラによる舞台装置(1967再制作)
Giacomo Balla (ricostruzione di Elio Marchegiani in scala dai disegni originali)
Maquette per la scenografia di ‘Feu d’artifice’ (1915/1967)
legno rivestito in formica, plexiglas, circuito elettrico, cm 96×91×71
Pianoro Vecchio (Bologna), Collezione Carla Pandolfo Marchegiani
(La Danza delle Avanguardie: Dipinti, scene e costumi, da Degas a Picasso, da Matisse a Keith Haring, catalogo della mostra, a cura di Gabriella Belli ed Elisa Guzzo Vaccarino, Skira, Milano, 2005. p.474)
【図版2】フォルトゥナート・デペーロ《3000年のアニッカム》(1924年)のための衣装
『「デペロの未来派芸術」展 図録』東京都庭園美術館、アブトインターナショナル、2000年。25頁。
【図版3】【図版4】ジャンニーナ・チェンシ《航空ダンス》(1931年)
T. Santacroce, Milano
Aerodanze 4-5-6-7 “Danza aerofuturista”
1931
fotografie b/n, cm 17,5×12,5
MART-Museo di Arte Moderna e Comtemporanea di Trento e Rovereto
(Fondo Censi, CEN.1.71-74)
(Il mito della velocità, catalogo della mostra, a cura di Eugenio Martera e Patrizia Pietrogrande, Giunti, Firenze e Milano, 2008. p.117)