第3回大会報告 研究発表パネル

7月6日(日) 16:30-18:30 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム3

パネル8:19世紀メディアと残滓としての身体

異像の系譜としてのステレオ写真
細馬宏通(滋賀県立大学)

あらわれる音像、とらわれる身体——1880年前後の「両耳聴」概念をめぐって
福田貴成(西武文理大学)

動物・痕跡・同一性——19世紀末フランスにおける犯罪者の身体
橋本一径

【コメンテーター】【司会】前川修(神戸大学)


司会の前川修氏によると3人の論者は「ステレオ」もしくは「心霊写真」つながりで、細馬宏通氏が<目>、福田貴成氏が<耳>、橋本一径氏が<指>をめぐって同一性の話をされた。

細馬氏は「異端の系譜としてのステレオ写真」として、ヴュワーを使って2枚の写真を融合させ、3D効果を楽しむものとされるステレオ写真が、まずは融合以前のわずかに異なる2つの異像を見せる/見るものであり、さらにわずかに異なる2つの像を見ることに伴う違和感は融合後もなくならず、融合に取り残されるものが出てくることを指摘した。煙や液体のような奥行を定義できない被写体、画面のキズ、3D効果に必要なズレのために片方にしか映っていないものなどが、意志の力では制御不能なレベルで生じる「視野闘争」などにより、融合後の視覚上で奥行きを持たない「ゴースト」としてあらわれるとのことである。

福田氏は「あらわれる音像、とらわれる身体—−1880年前後の『両耳聴』概念をめぐって」として、その概念が「外的対象と感覚の間に必然的な結びつきは存在しない」という認識を前提に、両耳聴を「空間把握」に一義的に結びつけるものであると指摘し、その意味を問うた。1881年パリ国際電気博覧会で部屋の四方の壁(=ばらばらの方向)に向いて「テアトロフォン」で送られてくる音を両耳で聴き、等しく「浮き彫り感と定位」という「リアル」な世界を感じた身体は、指示対象性の不在を基盤とするファンタスムとしての「音源」概念を前提に、スードフォン(実際とは別の方角から聴こえるように感じさせる装置)などで先鋭化される「現実の無効化」をへて、個々の身体や運動からは独立・抽象化された両耳を持つ、不動の、とらわれた身体であり、それが生物学回避の傾向と関連づけられた。

橋本氏は「動物・痕跡・同一性——19世紀末フランスにおける犯罪者の身体」として、ギンズブルグが提示した個別の「徴候」を重視する「狩人的パラダイム」から、種の特定ではなく個体同定へと向かったフランスの犯罪捜査の歴史を検証し、そこでの身体の特性を問うた。証言より物証の客観性が重視されるようになると身体の痕跡から身体そのものへと注目が移り、痕跡化する前に身体を測定・アーカイブ化し、それを現場で採取された痕跡と比較・同定するといったシステムへと動いていく。するとモデルなき痕跡や、接触よりむしろ隔たりが刻印された痕跡(cf. 神仏・鬼仙関連の痕跡とされる足跡石)も可能となり、実際、現場に残された痕跡を元に犯人の動きを再構成すると、既に自白している犯人自身、覚えておらず理解も不能な軌跡だったなど、「法医学的客観性の幽霊」も生じたとのことである。

司会者からは視覚と聴覚をめぐるステレオの動向はパラレルかとの問いが出され、異像を前にすれば目は迷う、耳は定位を行う、左右一方の情報不在に対する処理法も異なり、解像度もシステムにも違いがあるとの回答が細馬氏からあった。さらに、両眼・両耳が空間を作ろうとする(無意識のレイヤーで行われる再構成の)指向性と、指紋という痕跡から個体を同定する指向性の違いが指摘された。フロアーからは、指紋で身体像が決まるのかとの問いが出され、ギンズブルグの推論的知を指紋に拡張できるのか、シャーロック・ホームズの指紋嫌いなどといったことに話が及んだ。19世紀、複数の像や痕跡の同一性をめぐる技術が現実を無効化しファンタスムや幽霊を作り出したという話には説得力と一貫性があり、最初から最後まで勢いのある軽快なセッションで、たいへん満足した。

細馬 宏通

福田 貴成

橋本 一径

前川 修


松本由起子(札幌大学)


発表概要

異像の系譜としてのステレオ写真
細馬宏通

ステレオグラムは、しばしば「3D」と同義として語られ、奥行き表現の代表であるかのように扱われる。しかし、二枚の異なる映像を左右の眼で見るという体験は、必ずしも奥行き感をもたらすとは限らない。左右の眼に全く異なる映像を見せると二つの像が交代に知覚される「視野闘争」の現象は、ステレオグラムの発見者であるホィートストンが最初の論文(1838)ですでに記述している。のちにブリュースターはこの視野闘争の原理を応用して、左右の異なる映像を用いたアニメーション機械を考案している。ステレオ写真の中には、単なる奥行き表現ではなく、左右の明度の差を利用した光沢表現や、トリミングや二重露光によって生じるゴースト現象を用いたものがあり、例えば現在、一枚の写真として観賞されているラルティーグの作品には、異像体験を経ることで新たな解釈が可能となるものが多い。アンダーウッド&アンダーウッド社の訪問販売マニュアルには、販売の際に、まず単眼によって像の歪みに気づかせ、改めてヴュワーで見せる段取りがいくつも紹介されている。空間上に一つの身体を定着させるステレオグラムではなく、時間上に複数の身体を展開するステレオグラムの系譜について、本発表では考察する。

あらわれる音像、とらわれる身体——1880年前後の「両耳聴」概念をめぐって
福田貴成

両耳聴を、聴覚による空間把握、とりわけ聴取主体における音源定位機能と一義的に結びつける考え方は、物理学者レイリー卿の論考「音源の方向知覚について」(1876年)を皮切りに、1880年前後の聴覚研究において活発に議論され、のち一定妥当な両耳聴解釈としての地位を確立した。このような両耳聴理解は、今日の聴覚研究では徐々に過去のもの(少なくとも両耳聴機能を過度に矮小化したもの)と見なされつつある。しかし、2chステレオ技術を基盤とするオーディオ装置が主流をなす現在、19世紀後半に端を発する上記の両耳聴解釈がいまだ一定の効力を保持しており、その解釈に基づいて構築された聴覚メディア環境が、我々の日常的聴取の一端を規定していることもまた確かである。本発表では、1880年前後に展開された、主に物理学者らの両耳聴研究を概観し、そこで両耳聴のどのような機能的側面が前景化されたのか、そしてその前景化を可能にするために必要であった問われざる条件とはいかなるものであったのかを明確化する。恐らくそこでは、音源定位というポジティヴな機能のネガとして、原理的に動的たらざるを得ないはずの「聴取する身体」が、物理的拘束を通じて抽象化・透明化されてゆく過程が見出されよう。また、そうした過程を可能にしたメディア技術としての実験器具の変遷も併せて概観し、今日的なメディア環境との連続と断絶がいかなる点に存するのかを探りたい。

動物・痕跡・同一性——19世紀末フランスにおける犯罪者の身体
橋本一径

1850年、フランスの『公共衛生・法医学年報』には、ぬかるんだ土地に残された足跡を薬剤により凝固させる方法を提案した薬剤師ウグランによる論文「足跡の凝固」が掲載された。これはフランスにおいて足跡を科学的な捜査に利用しようとした最初の試みとされるものである。犯罪捜査における痕跡の科学的な利用としては、足跡よりも血痕のほうが歴史は古い。しかし19世紀初頭の血痕の議論は、それが人間のものであるのか動物のものであるのかを科学的に分析することが主眼であった。したがってそれが「誰のものか」を解明することを目指して痕跡を用いたのは、足跡の例が最初のことだったと言える。 周知のようにカルロ・ギンズブルグは、論文「徴候」において、狩人が獲物の足跡を読解する知に、「ガリレオ的」科学のパラダイムとは異なる、個別の「徴候」を重視した「推論的パラダイム」の起源を求めている。しかし狩人にとって足跡は、それがウサギ、熊、狼、等々のものであるのかを知るための手がかり、つまり「種」の問題であったはずである。だとすれば「人間か動物か」が焦点であった血痕から、「誰か」を問題とする足跡へと、痕跡をめぐる議論がシフトしたとき、犯罪学はギンズブルグの言う「狩人的パラダイム」から逸脱したのだと言えないだろうか。本発表はこの仮説を出発点に、足跡からやがて指紋へと至る捜査技術の歴史を検証し、そこで問題となる身体の性質の解明を目指す。