第3回大会報告 研究発表パネル

7月6日(日) 16:30-18:30 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム2

パネル7:物体的な、あまりに物体的な——自然史の只中

裂け目の深さ——ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』における「物体的」深層
千葉雅也(東京大学)

悪しきパントマイム——『ラモーの甥』の生理学
大橋完太郎(東京大学)

カリス=借金帳消しのリアリズム——新約聖書への生態心理学的アプローチ
柳澤田実(南山大学)

【コメンテーター】染谷昌義(高千穂大学)
【司会】佐藤良明


「物体」とも「身体」とも翻訳できるcorporealなもの、有限のカサと持続の幅のなかにおさまり、力の作用と破壊を受けつける生々しい「ブツ」。パネル7では、この「ブツ」をテーマにした三つの発表が、佐藤良明氏の司会のもとで行なわれた。何かを表すもの=表象とは対極に位置し、その意味を十分に汲み取ることが――いや、意味があるのかないのかもよくわからない――厄介な「ブツ」をテーマにすることは、ひょっとしたら表象文化論学会にしかけられた爆弾なのかもしれない。丸善に置かれたレモンのように…。

最初に発表した千葉氏は、ドゥルーズの『意味の論理学』の読み直しを行いながら「ブツ」に接近を試みた。そこで取り出されたのは「物体の深層」という概念である。「物体の深層」は、私たちが障害・傷害・嗜癖・病・身体管理といった「物=体」の破壊に直面したとき、何かを創造しながら「物=体」を生きのびさせようとする力の源である。分裂気質のアルトーやアル中のフィッツジェラルドは、「物=体」に入った裂け目に破壊されるわけでもそれを元通りに修復するわけでもなかった。彼らの文学は、その裂け目を背負いながら「物=体」を新たに創造し生きのびさせた痕跡である。千葉氏によれば、ドゥルーズ哲学全体に一貫するモチーフとは、そのような「物=体」のリアルさ、物質と表象のはざまにあってそのどちらにも還元できない中間層の追及であったという。「物体の深層」のリアルさをもろに生きた小説家や詩人にジェラシーさえ抱いていたドゥルーズ。千葉氏は「物=体」をしたたかに(憧れを抱きながら?)見つめるドゥルーズの姿をあぶりだしてくれた。千葉氏の発見したドゥルーズは、欲望のアナーキーな発露を賞賛するポストモダン風情からは随分遠いところにあるようだ。

続く大橋氏は、18世紀の奇書の一つである、ディドロの『ラモーの甥』のなかに「ブツ」のリアルさを探索した。大橋氏が注目するのは、哲学者と対話するラモーのパントマイムである。ラモーは哲学者からの問いかけに対話的な言葉で応答することをしない。落ち着きなく次々に繰り出される身ぶり動作の連続によって応える。すごいことに、それは演劇的な模倣表現の域も超えてしまう。意味を汲み取ることのできる記号性がなくなっているのだ。残念なことに、このパントマイムの意義は『ラモーの甥』の解釈を試みたヘーゲルからは完全に無視されてしまった。ヘーゲルのように対話を弁証法的により高みへと向かう定向的な歴史過程とするなら、大橋氏の発見した『ラモーの甥』での対話は、物体性(動物性?)がむき出しになった、落ち着くところを知らない自然史の過程だった。ディドロの哲学には、当時の博物学や生理学に依拠した「物=体」観がある。そうした「物=体」観とすり合わせるとき、「物=体」には美の根拠もあれば善悪の根拠もある。大橋氏は、分類や秩序をすり抜けながらも、ゆるやかな統一性を保って流れるパントマイムと、自然史の過程とがディドロ哲学では重なることを示した。私たちの日常的な動作もパントマイムの一種であると考えることができるなら、「ブツ」の「ブツ」らしい歴史は、案外見慣れた動作に刻印されているのかもしれない。

最後に発表した柳澤氏は、イエスの具体的な身体動作に焦点を当て聖書のエピソードを「唯ブツ論」的に読解しようとした。イエスは一体何をしたのだろうか?イエスの行為の意味とは何か?柳澤氏は、この問に対して、イエスの意図や愛による赦しといった「精神的・抽象的」な側面の解釈によって答えるのではなく、血と肉を供えたイエスの身体がそれを取り囲む周囲のなかで行なったことを忠実になぞることで答えなければならないという。柳澤氏によれば、聖書に描かれたイエスの行為は、行動によって環境を作りかえる「唯ブツ」的作業に他ならない。イエスは、内面の回心へとつながる、環境あるいはコンテクストをその行動と言葉によって作り出したのである。たとえば、姦通をした女性を石打ちにしようと殺気立つ集団のなかで、イエスはかがみこみ地面に何かを書く。集団はこれをのぞきこむ。そして言葉が続く。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。イエスはかがみこむことで場を共有する人々を「赦し」というセッティングに引き込んだ。そして最後に女性を解放し、明日から再出発できる環境を整えてあげた。柳澤氏の聖書読解は、イエスの行動とその周囲の「唯ブツ性」をつぶさに検討するなかから、人々の行動が真に変われる環境の立ち上がりを明らかにしようとする。さしずめイエスは、人々を巻き込んで環境を作りかえる「網張り」の天才なのだろう。この挑戦的な聖書読解の提案に識者はどんな反応を見せるのだろうか。なんだかワクワクする。

お分かりのように、三人の発表者はそれぞれの切り口で「ブツ」のリアルさに触れようとしていた。その当否についてはまだ多くの議論を必要とするだろうが、表象よりも原子や分子よりも、そして生産諸関係よりもリアルな「ブツ」が隠れているだろうことは予感できる。「物体的な、あまりに物体的な」ゆえにアプローチしづらい課題。発表者とともに、今一度「ブツ」を主題化できる自然哲学を考えてみたくなった。

千葉 雅也

大橋 完太郎

柳澤 田実

染谷 昌義

佐藤 良明


染谷昌義(高千穂大学)


発表概要

裂け目の深さ——ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』における「物体的」深層
千葉雅也

ジル・ドゥルーズは『意味の論理学』(1969)において、ルイス・キャロルとアントナン・アルトーの文学における「無意味」の質を対比して、前者はその言葉遊びによって「非物体的なもの(incorporel)」である「言語」の条件を探っているが、後者ではむしろこの条件が、「物体的なもの(corporel)」と言語の境界が崩壊していると論じた。以上の図式は、キャロル=(神経症・)倒錯的/アルトー=分裂病的とする精神分析的構図に収まるかに見えるが、しかし非物体的なもの/物体的なものという二元性はより広い射程をもっている。注目されるのは、ドゥルーズが、アルトーの分裂病と共に、アルコール中毒(フィッツジェラルド等)や戦争による身体障害(ジョー・ブスケ)にも言及し、一見破壊的な〈身体に対するダイレクトな物体的作用〉が創造の源泉に転化しうると認める点である。本発表は、『意味の論理学』でのキャロルからアルトーへの展開に見られる、言語構造の境界‐侵犯を問題とする(ラカン‐ジジェク的)ネガティヴなアプローチと、精神・身体活動の可能性を制限するような物体的作用がむしろ活動の潜勢力を開きなおすと考える(生態心理学とも共振する)ポジティヴなアプローチとの交錯について検討する。

悪しきパントマイム——『ラモーの甥』の生理学
大橋完太郎

人間の自然本性の内にある悪への傾向性をカントに倣って「根源悪」と呼ぶことが許されるならば、ディドロの小説『ラモーの甥』の主人公は、まさに根源悪が具現化した人物だと考えられる。とはいえ、哲学者「私」と寄食者「彼=ラモーの甥」との対話は、後代のヘーゲル哲学においては、やがて止揚されるべき意識の分裂として理解されることになる。いわばヘーゲルはラモーのうちに見た悪の実在を理念化のプロセスの内に従属させたと言えよう。悪の根源性はそこでは中性化されてしまったかのように見える。

ディドロの哲学自体は、悪の実在を可能的善として捉えることを許容するものではない。「悪はいつでも天才の手をへてこの地上にやってきた」と語るラモーの甥は、悪の実在と天才の実在とを同等の原因によるものだと見なしている。ディドロにとって、悪と天才、狂気や芸術的霊感のすべては、人間身体の物質的秩序の変容や乱調、すなわち「生理学」によって説明されうる。

本発表は、以上のような前提に立ち、『ラモーの甥』のテクスト読解を通じて、唯物論的世界における美と道徳との一般的関係についての考察を試みる。格率なき世界のなかで、すなわち善悪の手前にある自然的秩序のただ中に身体が措定された審級において、悪人ラモーが繰り広げる様々な身振りの芸術をいかに理解すべきだろうか。いかなる条件において、自然を模倣しつつ再構成する技術=芸術 (art)の、非-道徳的な善悪を考えることができるだろうか。

カリス=借金帳消しのリアリズム——新約聖書への生態心理学的アプローチ
柳澤田実

ヨーロッパの精神史上、人間精神の「内面」は、罪の意識を顕在化させた新・旧約聖書と、罪の問題を自由意志概念によって基礎付けたアウグスティヌスによって形作られたと言われる。こうした精神主義的なキリスト教理解は、聖書や神学テキストに内在する行為論的観点や実在する物体への配慮を極めて見えづらいものにしてきた。本発表は、新約聖書の福音書読解に生態心理学的アプローチを導入し、ナザレのイエスの他者への関わり(愛や赦し)を、「内面」的な「回心」のみに還元することなく、身体的行為を介して実現する具体的な環境(=セッティング)の改変として提示する。その上で、イエスによってもたらされる「赦し=カリス」がそもそも原義として「借金帳消し」を意味し、福音書もまた「罪」と「赦し」をそれぞれ「借金」と「帳消し」に喩えていることの意味を、行為との関係において思考したい。上記のような試みは、金銭というものを、人間の行為可能性という観点から問い直すこととも繋がるだろう。