第3回大会報告 | 研究発表パネル |
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7月6日(日) 10:00-12:00 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム1
パネル1:写真行為の現場
交差する「それは–かつて–あった」——フォトモンタージュの意味作用
井上康彦(東京藝術大学)
ハンス・ベルメールの芸術実践とステレオ写真の関係
調文明(東京大学)
スナップショット再考——「コンポラ写真」を中心に
冨山由紀子(東京大学)
【コメンテーター】田中純(東京大学)
【司会】冨山由紀子(東京大学)
本パネルでは、写真の多様な存在形態――フォトモンタージュ、ステレオ写真、スナップショット――を軸として、それぞれが他芸術に与えた影響もしくは写真史の中で持つ意義――シュルレアリスム、ベルメール、コンポラ写真――について議論された。
井上康彦氏の発表はマックス・エルンストのフォトモンタージュ作品《中国のナイチンゲール》をシュルレアリスムの文脈から考察するものであった。氏はこの作品を、無意識の直接の表出としての「オートマティスム」と、異種のものの並置から生み出される「驚異」というシュルレアリスムの二つのベクトルを包摂するものとして位置づける。前者を規定するのは写真の持つ無媒介性・密着性であり、それを示すものとしてロラン・バルトとロザリンド・クラウスの写真論が参照された。そして、このようなイメージ群がモンタージュされることで、イメージ間の質感のズレが露わとなり、密着性に亀裂が入る。ここに多様な過去が交差する「写真的驚異」が生まれる、という結論であった。
調文明氏は冒頭で、「人形作家」ベルメールの写真がせいぜい人形を知るためのものとしてしか論じられていなかったことを指摘し、写真作品そのものを分析して彼の芸術実践を総体として考察する必要を示唆した。ベルメールはポルノステレオ写真を収集していたが、その写真実践への影響が示されるのは約15年を隔てて出版された二つの写真集の差異にあるという。「第二の写真」において顕在化するのは正方形フォーマット、手彩色、鏡の使用などというポルノステレオ写真の特徴であった。さらに「ステレオ立体視」と、銅版画やデッサンにおけるイメージの「重ね合わせ」の手法の関連性を示すために、男性の欲望において自我が女性の肉体と重なり合うというベルメールの言葉を鍵に、実際の作品において例証が試みられた。
冨山由紀子氏の発表では、自明視されがちなスナップ・ショットの意義を捉えなおすという目的から1970年代の日本で起きた「コンポラ写真」が考察された。その特徴(日常性、引いた視線、キャプションの回避など)は、『ライフ』に代表されるような「テーマ主義」的写真、そしてラディカルな運動を試みた『PROVOKE』の「アレ・ブレ・ボケ」を多用したスナップショットとの差異から明らかにされる。さらに「コンポラ写真」をめぐる批判的言説を俎上に上げつつ、実際の作品として関口正夫『日々』が分析された。人物を必ず入れていること、互いに無関心な人々、幕などで遮られた空間といった特徴によって、この作品は関係性が失われた状況における人間を示し、見る側に主体性を求めているのではないかという結論が示された。
コメンテイターの田中純氏の問題提起は主として以下の通りであった。1.クラウスは引用した箇所と違うところでシュルレアリスムとフォトモンタージュを区別しており、クラウスとの論の違いを明確にするべきであった(井上氏はクラウスの理論的視座を踏襲しつつ、写真の「距離」という観点を付け加えたと答えた)。2.「重ね合わせ」とステレオ写真の関連は実証的にははっきりせず、むしろ緊縛写真に特徴的なように、ベルメールの作品は二重化を超えた作品であるという見方も可能なのではないか(これに答えて調氏は、二次元に陥れてしまったものを救い出すインスピレーションとしてのステレオ写真という観点を提示した)。3.提出されたのはスナップショット固有の問題というよりは「コンポラ写真」に限定された問題ではなかったか。また、「テーマ性がない」「主体性を要する」といった評言は適切かという指摘があった(冨山氏は「テーマ性」について説明を加えたが、田中氏は「コンポラ写真」の作為的な面をめぐって別様に語ることもできるのではと示唆した)。
会場からはそれぞれの領域における専門家からコメントが寄せられた。井上氏の発表については、エルンストの作品史においてフォトモンタージュはあまり重要ではない点、またこの作品と、引用されていたブルトンの理論的文章は年代を大きく異にしている点が指摘され、シュルレアリスムにおけるオブジェクティフという視点が新たに提起された。調氏の発表については、実際のステレオ写真との関連性以上に「ステレオ的」作品として見る視点が興味深いという指摘があった。時間も場所も性格も互いに異なる写真実践についての今回の討議からは、写真固有の問題が導かれるばかりでなく、様々な領域に示唆を与えるような視点(痕跡、映像の二重化、平板化、平面/立体…)が多数浮かび上がったように思われる。
井上 康彦
調 文明
冨山 由紀子
田中 純
熊谷謙介(学術振興会・PD)
発表概要
交差する「それは–かつて–あった」——フォトモンタージュの意味作用
井上康彦
『明るい部屋』のロラン・バルトは、写真の分類(「プロ/アマチュア」、「風景/静物/肖像/ヌード」、「レアリスム/ピクトリアリスム」)は、写真の本質とは無縁だ、と書きつける。写真を分類できる唯一の単位は、「写真」という己自らを規定するジャンルをおいて他には存在しない、ということだ。それは、写真が撮影者の意図を超えて、レンズの前の光を「無媒介に」焼き付けたものだ、という原理的な生成過程に拠る。「ça-a-étéそれは‐かつて‐あった」は、心理的で曖昧な写真分類を超えて、あらゆる写真に当て嵌めることのできる特性なのである。
では、この写真の特性「それは‐かつて‐あった」は、写真を「使った」作品についてどのように敷衍可能か?
本発表は、この写真の特性をふまえた上で、写真を「使った」作品である「フォトモンタージュ」において、いかなる意味作用が働くかを分析する試みである。
1920-30年代に「プロパガンダ」や「驚異」の効果を狙って量産されたフォトモンタージュは、今述べたような意味では「写真」と異なる領域に位置を占める。一枚の紙面上に切り貼りされた断片は、各々の部分がそれぞれに写真の「過去と不在」を主張しているにもかかわらず、その配置は、意図的であれ恣意的であれ、人為によるものだからだ。ここに見られるのは、配置する作為と、各々の写真の断片が持つ「過去」と「距離」が交差する固有の意味作用である。
ハンス・ベルメールの芸術実践とステレオ写真の関係
調文明
ハンス・ベルメールといえばシュルレアリスム運動に参加し、球体関節人形を製作したことで有名である。しかし、澁澤龍彦が「写真家ベルメール」で述べているように、ベルメールが撮影した写真そのものに関しては未だ十分な議論がなされているとは言い難い。また、多くの研究書が指摘しているように、ベルメールはポルノ写真のコレクターでもあり、写真収集と写真実践の相応関係も無視できない問題であろう。
そこで、本発表ではポルノ写真として大量に流通していたステレオ写真に注目して、ベルメールの写真実践を分析していきたい。ベルメールは球体関節人形の写真を撮影した後、長らく写真を撮っていなかったのだが、後年恋人であったウニカ・チュルンの緊縛写真を撮影しており、その両者の時間的隔たりをも含めた関係性も明らかにしていくつもりである。
更に、ステレオ写真の影響はベルメールの写真実践のみで終わるものではない。球体関節人形の写真を撮った後、ベルメールは銅版画や線描画を描くようになる。そこで、彼は「重ね合わせ」という手法で独自の作風を確立するのだが、その「重ね合わせ」という行為がステレオ写真を「見る」行為とパラレルになっている。著作活動も含めたベルメールの芸術実践のうちに見られるステレオ写真的視覚の問題も議論していきたい。
スナップショット再考——「コンポラ写真」を中心に
冨山由紀子
「スナップショット」とは一体何であろうか。この、今ではあまりにも自明のものである撮影スタイルについて、その特性や変遷をきちんと追った研究は未だになされていない。そこで、日本写真史におけるスナップショットの流れを考察するために、1970年代に起きた「コンポラ写真」におけるスナップショットの在り方を分析してみたい。コンポラ写真の登場は戦後の写真史に大きな切断点をもたらしたが、その潮流を担った写真家たちが重視したのが、スナップショットという撮影方法であったためである。
コンポラについての研究もまた、その全体的な掴みどころのなさゆえ、系統立った研究は行われてこなかった。しかし、90年代に入って「90年代版コンポラ」と称される流れが現われ人気を博し、また、2000年代に入ってからはコンポラを代表する写真家である牛腸茂雄の回顧展が開催されて幅広い世代から反響を呼ぶなど、コンポラ再考の機運は徐々に高まりつつある。
コンポラを軸としてスナップショット史を読み解くことにより、その特徴と変遷についての新たな読みを提示し、同時に、コンポラの再読を試みたい。具体的には、牛腸とともに活動を開始し、現在に至るまで約40年に渡ってコンポラ・スタイルを堅持してきた写真家である関口正夫の写真を取り上げる。