第3回大会報告 研究発表パネル

7月6日(日) 10:00-16:00 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム2

パネル2:構想力と表象の臨界──言霊、芸術、人間的自然

人間的自然と詩的想像力──ヴィーコと宣長
友常勉(東京外国語大学)

構想力の射程──シモーヌ・ヴェイユと西田幾多郎
今村純子(慶應大学)

富士谷御杖における倫理的構想力
畑中健二(東京工業大学)

【コメンテイター】【司会】岩崎稔(東京外国語大学)


構想力論を「神話・制度・技術・経験」の四つの領域からあつかった三木清に従えば、それは歴史的ポイエーシスでありゲネシスであり、さらに「型の論理」を持つ「行為の哲学」であった。カント・バウムガルテンの美学を継承する批判的美学の立場ならば、「呈示しえぬ」「いわくいいがたきもの」を現出させる「呈示の能力」(谷川渥)となろう。だが本パネルが意識したのは何よりも「目に見えているものがいっとう神秘」(中井正一)となる時代に到来する深甚な暴力、いわば想像を凌駕する暴力に向き合うための構想力論の条件を探ることであった。「『アウシュヴィッツと表象の限界』が発題されてから十数年。世界に遍在する政治的暴力のもとで、国家の内奥で、あるいはその周縁で自然的資源と想像力を奪う光景がつづいている。この政治的暴力の継続を前にして、構想力論の系譜に立ち返り、現在的な問題提起のあり方を模索してみたい」と本パネルのアプリケーションに記したゆえんである。とはいえ構想力という「マジック・ターム」(岩崎稔)に振り回されないために、今回のパネルにおいて設定されたのは、論点を「言語と身体の根源的な関係にずらすこと」によって、「排除される他者の声がざわめくトポス」において「言葉と身体とを転轍する」議論へと問題を絞ることであった。構想力論が現在の哲学・思想研究の主戦場となっていないのは、それが時代錯誤的だからなのではなく、メガロマニアックな欲望を誘い出す〈マジック・ターム〉と化しているからにほかならないからである。では各報告はそうした誘惑から距離を置いて、構想力論を提起することの現在的な意味を提示しえたかどうか。

友常勉(東京外国語大学・非常勤講師)「人間的自然と詩的想像力――ヴィーコと宣長」はジャンバッティスタ・ヴィーコの詩的知恵・詩的想像力をキー概念として、これを本居宣長の神話論理と「生」の把握の二面性に対照させた。構想力の基底をなす身体性についてのヴィーコの論証を土台として、これを宣長の「生」論へと応用したわけである。そしてさらにその感性的構想力が、ヴィーコにおいては「衡平aequum」、宣長においては「権」(あるいは「権」的な視角)を媒介として政治社会的な段階へと橋渡しされると論じた(「権」はここでは秤の錘の意味)。同時にこの論証手続きの過程では宣長の議論における暴力的かつ権力的契機と、それを中和する対抗的な契機があることが、ベンヤミンの「神話的暴力・神的暴力」を参照しながら論じられた。

畑中健二(東京工業大学・助教)「富士谷御杖における倫理的構想力――〈言霊倒語〉という方法」は、富士谷御杖の「言霊倒語」を、近世国学の歌論を通して定義しつつ、そこに①他者とのコミュニケーションの断絶という条件、②言外の表出でしか伝達(「感通」)できない「所思」の不可思議さ・霊妙さの把握と概念化という契機があることが論じられた。さらに富士谷の言霊論の射程が保田與重郎にまで及んでいることが示唆された。いわば「呈示しえぬ」事態を修辞的なアクロバットによって呈示する操作が、構想力論に位置づくものであることが示されたといえよう。

今村純子(慶應義塾大学・非常勤講師)「構想力の射程~シモーヌ・ヴェイユと西田幾多郎~」は、「善への欲望」を終着点として持つシモーヌ・ヴェイユの思想において、その思考空間の構築において労働の観念を通して「美の感情」へと向かう魂の超自然的な同意の働きが提示された。そしてヴェイユとの対比において、「美」と「善」からの呼びかけに応じることでその思索をヴェイユと共有する西田の「無限のイマージュ」について、しかし美的感情を言葉に取って代えてしまう西田の屈曲が、『善の研究』あるいは「場所的論理と宗教的世界観」を通して論じられた。プラトニズムの系譜が胚胎してきた共通善に向かい、その絶対性を確保しようとする倫理的構想力の局面が論じられたといえよう。

古代的で感覚的である点でもっとも広義の構想力論(友常)から、よりテクニカルで修辞的な構想力論(畑中)、そして倫理の絶対性に向き合うという意味で、「呈示しえぬもの」そのものをあつかう倫理的構想力(今村)という位相の異なる三つの報告において、その対象が無限性と絶対性であったがゆえに、質問が集中したのは今村報告である。また、「呈示しえぬもの」と修辞的作法や言語との緊張関係が定かではないという意味での疑問が、畑中報告には寄せられた。友常報告に対しては、「神話的暴力・神的暴力」と祝祭との関係をめぐって、神話的暴力から自由な構想力論を想定していることに対する疑問が寄せられた。

各報告が扱う思想家たちが強烈な個性であるせいか、抽象的な構想力論の応酬になることはなかったといえよう。ただし議論をかみあわせることは相当に難しかった(討論をリードした司会の岩崎稔氏には心から感謝したい)。友常報告と畑中報告が他者との共感性や共同性の時代的差異において重なるとしても、それは今村報告とはかみあわないし、あるいは「想像を絶する暴力」をめぐる思考にひとつの倫理的態度を示唆した今村報告に対して、その倫理の表現のための階梯構築の作業を、友常、畑中の構想力論が分業できるかというと、まだまだ距離の開きがあるようにである。本稿の冒頭にもどるならば、三木が四領域から論じた構想力論があくまでノートであったように、このパネルでも分割された諸領域が、互いのつながりに迫りきれないままにノートとして示されたに過ぎないようにもみえる。とはいえ今日において構想力論の再論を試みることとは、まずはこのようなアプローチを不可避とするのではないかとも考える。これを踏まえて次の水準に議論を進める糧としたい。

友常 勉

今村 純子

畑中 健二

岩崎 稔


友常勉(東京外国語大学)


発表概要

人間的自然と詩的想像力──ヴィーコと宣長
友常勉

ヴィーコは、人間性〈humanistas〉に重要性を置くとき、それが語源学的に埋葬〈humando〉に由来すると述べた。つまり肉体的な事実性を起源に据えている。人間性の諸能力や諸限界は、つねに肉体的な事実性をふまえた自然的なエネルギーを包みこんでいる。このエネルギーは起源へと再帰する力でもある。それゆえ『新しい学』のなかで人間性とはまず詩的知恵であり民衆知でもある神話の論理のなかにもとめられ、起源へと再帰する生の表象として理解された。ところでヴィーコの学知が、人間的なものの自然性と、神話の論理と表象を介して起源へと再帰する力に注目したことから、日本ではしばしば本居宣長の古学との相関性が想起されてきた。宣長は、『古事記』の神話論理を復元することで、日常世界の自然的構成の力を取り戻そうとしたからである。そこで報告では、ヴィーコと宣長を同時に俎上に載せることによって、人間的自然の再構成のためには民衆知としての詩的知恵・詩的想像力を不可欠の回路とするという視角を検討してみたい。そこで特に注目するのは、この両者が再帰する神話が、「例外状態」を不可避的にともなう権力の(あるいは主権の)神話だということである。その意味で、肉体的事実性と神話的時間の結びつきが人間的自然の再構成において寄与する位相を考えることは、「例外状態における生」を考える手がかりともなるだろう。

構想力の射程──シモーヌ・ヴェイユと西田幾多郎
今村純子

シモーヌ・ヴェイユと西田幾多郎は、哲学的思索の出発点において、カント『判断力批判』を踏まえた、構想力が開く自由の可能性を考察している。このことは、ヴェイユの「脱創造」と西田の「逆対応」が、きわめて類似した構造をもつに至ることと無縁ではない。

ところで、シモーヌ・ヴェイユの著作は、フランスよりもむしろ日本において読まれている。これは、ヴェイユの言葉に、様の東西を超えた普遍性があることを意味する一方で、否定的な意味における、日本的美意識に触れてくるものがあるとも言える。
ヴェイユが提示する美の位相を見定めるために、全体主義に回収される脆さをも有していた西田との比較考察は有益である。「脱創造」と「逆対応」は、「認識と距離」の問題に帰着されるが、ヴェイユにおいては、美的感情が一貫して不可欠であるのに対し、西田においては、美的感情そのものが捨象され、そのことが、「構想力」が「想像的なもの」に回収されてしまう危険性へと連なってゆく。

「目的なき合目的性」、「関心なき適意」を真に生きるとは、どういうことであろうか。ヴェイユにおける「労働」という社会的実践と、西田における「禅」という宗教的実践との差異が、どのような身体性の差異を提示し、とりわけ、労働という「技」が芸術という「技」に転換されるダイナミズムに着目することを通して、現代において、善が美として表象される可能性を探究したい。

富士谷御杖における倫理的構想力
畑中健二