第3回大会報告 研究発表パネル

7月6日(日) 16:30-18:30 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム1

パネル7:漂流するハリウッド——両大戦間期におけるハリウッド映画のグローバル/ローカル化

ベルリンとハリウッドの狭間で——ジョー・マイ『印度の墓標』(1921)における対米輸出戦略
竹峰義和(武蔵大学)

「ハリウッドの分身」エイゼンシュテインとアメリカ映画
畠山宗明(早稲田大学)

アメリカン・ギャングスター——一九三〇年代小津安二郎の犯罪メロドラマ
御園生涼子(東京大学)

【コメンテーター】吉本光宏(ニューヨーク大学)
【司会】竹峰義和(武蔵大学)


グローバル・シネマとしての「ハリウッド映画」とは何か。ハリウッド映画がグローバルな規模で覇権を握り始めた両大戦間期の、ローカルな場における――ドイツ、ソビエト、日本――映画作家たちの折衝をたぐることで、冒頭の問いを再考しようというのが本パネルの趣旨であった。

竹峰義和氏は、1921年にジョー・マイによってドイツで製作された『印度の墓標』を、アメリカを含めた海外の市場をにらんだ、いってみれば起源の「ブロックバスター」という観点から検証した。この時、竹峰氏が注目するのは、製作のコンテクストと映画のスタイルである。製作のコンテクストとして、外国映画の輸入が制限されていた第一次世界大戦後のヴァイマル期のドイツの状況および、同時期にグローバル・ヘゲモニーを急速に拡大させていったハリウッド映画が挙げられた。また、映画のスタイルとしては、オリエンタルな題材(インド!)を超ロング・ショットでパノラマ的に捉えるという手法がとられており、ここには、時間的にも空間的にも細分化されたショットを重ねていくハリウッドのスタイルと自らを差異化させていく戦略があったのではないか、と示唆された。

畠山宗明氏は、エイゼンシュテインがいかにしてアメリカ映画から彼のモンタージュ論を引き出したのかと問いを立て、主としてエイゼンシュテインのアメリカ映画論「ディケンズ、グリフィス、そして私たち」を読解した。エイゼンシュテインのグリフィスに対する態度はアンビバレントであり、エイゼンシュテインによれば、グリフィスのモンタージュは急激な発展を遂げる都市のエネルギーをそのショットの転換の速度を介して取り込んでいる一方、モンタージュを組み立てる論理はアメリカの田舎的価値観に基づいている。さらにエイゼンシュテインが主張するには、後者のアメリカのローカル性を乗り越えたところに、もはやショットの対立に基づかない――この対立には必然的に階級的対立が含意されてしまう――普遍的なモンタージュ、「細胞」としてのショットが衝突を通じて統一へと向かうモンタージュが可能になる。畠山氏の発表は、ハリウッド映画=グローバル・シネマという、ややもすると前提とされがちな図式を、エイゼンシュテインのアメリカ映画のローカル性に対する批判とオルタナティブな「普遍的」シネマ(の可能性)を通じて再考に促すものだった。

御園生涼子氏の発表は、小津安二郎の『非常線の女』の政治性を問うものだった。多くの場合、小津の映画はその美的達成によって評価される。御園生氏はまず、こうした言説が1933年にすでに確立していたことを、『非常線の女』公開当時の批評から示した――『非常線の女』はギャングスター映画の日本版というよりも「ギャングスター映画」そのものである。その上で、こうしたコスモポリタン的性向にもかかわらず、『非常線の女』はローカル間の不均衡な権力関係を内包しているのではないか、と御園生氏は問い、次の二点に注目した。すなわち、公開当時の「バタ臭い」という批評から露呈してくるアメリカVS日本の権力関係および、「日本」内部の複数のローカル間の権力関係のアレゴリーとしてのレコード店・シーンのギャグである。後者は、視聴室の防音ガラスを隔てて二人が会話するという、トーキー化が進む1933年の日本にあってサイレント映画でなければ不可能なギャグであり、御園生氏はそこにトーキーでは露呈してしまうだろうローカルなアクセントの抑圧を読むのである。ここには、小津の映画の政治性の問題に加えて、サイレント映画というメディアの特性に関わる問題も隠れている。

コメンテーターの吉本光宏氏は、三人の発表を受けて、「古典的ハリウッド映画」という概念が英米圏のフィルム・スタディーズで使われるようになった経緯に注意を促した。70年代に記号論と手を携えて発展してきたフィルム・スタディーズにとって、映画の語りの形式の問題は最大の関心ごとであった。80年代になって、語りのスタンダードなスタイルを有するとして「古典化」されたのがハリウッド映画群である。たしかに、映画のスタイルのスタンダードをとりあえず措定することは、新しいディシプリンとしてのフィルム・スタディーズにとっては有益であった。しかし、「古典的ハリウッド映画」を尺度として無批判にその他の映画を測るのは大きな問題を含んでおり、フィルム・スタディーズがディシプリンとしてある程度権威化された現在においては、むしろ後者の弊害のほうが目立つのではないか。私見を含めていうと、本パネルの構成そのものが吉本氏の発言と問題意識を共有しており、その意味で三人の発表はいずれも吉本氏の批判を免れていたと思われる。ただし、吉本氏の発言の真意は、「古典的ハリウッド映画」という概念を批判した後にどのようなフィルム・スタディーズを構築していくのか、という大きな問いかけにあったことはいうまでもない。

その後、少ない時間ではあったが、聴衆との質疑応答が行われた。両大戦期の映画観客にとって「ハリウッド映画」とは、物語のスタイルによってではなく、「スピード」や「センセーション」といった身体的な経験によって特徴付けられていたのではないか、という質問では、「スピード」や「センセーション」も身体との関わりにおいて非歴史化されるべきではなく、同時代の観客にとっての映画的経験とはどのようなものであったのか、当時の言説から考える必要があるだろう、と発表者の三人を巻き込んでの白熱した議論となった。

竹峰 義和

畠山 宗明

御園生 涼子

吉本 光宏


滝浪佑紀(シカゴ大学)


発表概要

ベルリンとハリウッドの狭間で——ジョー・マイ『印度の墓標』(1921)における対米輸出戦略
竹峰義和

オーストリア出身の監督・脚本家・プロデューサーのジョー・マイ(Joe May: 1880-1954)は、1911年に映画監督としてのキャリアを開始して以降、『世界に鳴る女』(1919)や『アスファルト』(1928/29)など、ドイツ映画の黄金期を代表する作品を世に送ったことで知られている。だが、ヴァイマル時代にマイが製作・監督した作品の多くは、ドイツの観客のみならず、海外市場――とくにアメリカ――を強く意識してつくられたものであることを見逃してはならない。とりわけ、第一次大戦終了後からインフレが収束するまでの時期(1918-1924)にマイが好んで手掛けたエキゾティックな大作映画は、外国映画の輸入が厳しく制限されていたドイツの国内市場の空白を埋め合わせたばかりでなく、インターナショナルな市場に積極的に輸出していくことで、ハリウッドのヘゲモニーに対抗するという戦略的な狙いが込められていた。そして、そこにはまた、ドイツという未開拓の市場と人材源に向けられたハリウッドの各映画会社の思惑も複雑に介在していたのである。本発表においてはまず、1921年にアメリカ資本のもとで撮影されたマイの製作・監督作『印度の墓標』を手掛かりとして、マイの大作映画における対米輸出戦略の輪郭を、時代的なコンテクストと演出上のスタイルの双方の面から検証する。くわえて、アメリカ亡命後のマイの活動について、ユニヴァーサルで撮られた『透明人間の復活』(1939)を中心に簡潔に考察したい。

「ハリウッドの分身」エイゼンシュテインとアメリカ映画
畠山宗明

エイゼンシュテインの映画美学、あるいは革命直後のロシア映画総体において、ハリウッド映画への接近は不可避であった。創成期ソビエトにおいて映画は、帝政期ロシアの文化的風土を刷新し、来るべき大衆社会という不在のユートピアを直接に可視化した。表面的にはエスニシティという文化的紐帯を欠くソビエト連邦の持続可能性は、ある意味ではアメリカ以上に不在の現前として現れる「イメージの共同体」に賭けられており、そうした中大衆文化の象徴としてのハリウッド映画の借用は、ねじれをはらみつつも、経済、政治、さらに映画美学といった様々な水準で正当化されていた。ジガ・ヴェルトフによる古典的ナラティヴの完全な否定やレフ・クレショフのより穏健なアメリカニズムなど個々の作家のスタイル上の差異もまた、ハリウッド映画に対する態度決定という観点から読み替えることができるのであり、中でもエイゼンシュテインは映画を、資本主義社会を内在的に超越する可能性を持った唯一のメディアとしてあらゆる芸術の最終段階に置き、ハリウッド映画を、そのようなポスト資本主義的な芸術様式が必然的に経由する、境界的な位置に置いたのである。

本発表では、ハリウッド映画との関係という主題を通じて、エイゼンシュテインの映画美学が抱えていた可能性と限界を、さまざまな文化的諸力の交錯の中からとらえ返してみたい。

アメリカン・ギャングスター——一九三〇年代小津安二郎の犯罪メロドラマ
御園生涼子

一九三〇年代の小津安二郎の犯罪メロドラマは、ハリウッド古典映画形式に習熟したその表現上の特徴と、消費文化に彩られた都市表象によって、世界同時的な「近代性」に特徴づけられる文化現象の一端に位置づけられてきた。第一次大戦後に強大な影響力を持ったアメリカ映画に媒介されたこの近代の表象を、文化帝国主義的な均質化の現われと見るにせよ、普遍主義的なモダニズムの一変形として捉えるにせよ、これらの一方向的な影響論に基づいた解釈からは、文化が伝播し翻訳されてゆく過程で不可避的に介在してくる異文化間の非対称的な権力関係や、それによって生じる齟齬や葛藤の様相が浮かび上がってこない。本発表においては、小津の一九三三年作品『非常線の女』を例に取り上げ、この作品に表れた「近代性」の表象、およびそれに対する同時代的な反応の分析を通じて、アメリカ映画という言葉によって表現される新たな近代の意味への感受性を捉え直してみたい。絶えず自己と他者を差異化するギャング達の抗争を描いた小津の犯罪メロドラマは、その見かけ上のコスモポリタン性とは裏腹に、一九三〇年代の日本を包み込んでいた民族と国家の対立をめぐる想像力を表現していると思われる。東アジアにおいて文化翻訳されたハリウッドのジャンル映画は、「近代性」という概念を覆っていた中立性のヴェールを剥ぎ取り、それが媒介していた文化・国家の境界線上の折衝を明るみに出すだろう。