第3回大会報告 研究発表パネル

7月6日(日) 14:00-16:00 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム2

パネル4:可謬的人間の表象

崇高論におけるこころの働き方についての考察——『判断力批判』第一部解釈への一視点
大熊洋行(東京大学)

贖罪からの倫理——テオドール・W・アドルノと思考の負い目
茅野大樹(東京大学)

経済原理と特異性——可謬性概念を通じた共同体把握の試み
三河隆之(東京大学)

【コメンテーター】宮崎裕助(新潟大学)
【司会】三河隆之(東京大学)


本パネルの主旨は、誤謬、過ち、失敗といったそれ自体はネガティヴに捉えられる「誤り」の諸相を人間ないし社会の本質的な条件として再検討することにより、「誤謬可能性としての人間/社会」の存在を、わたしたちが現在引き受けるべき思想の問題として、いま一度、追究してみることにある。

大熊洋行氏による最初の発表では、カントの崇高論における「快」の作用を通して、人間感性における可謬性が取り上げられた。カントの崇高論では、構想力の美的表出の「挫折」や「誤り」を通じた「不快の快」が問題になっている。本発表では、そのような意味での感性論的な「誤謬」が、とりわけ道徳的な感情の表出との関連で、人間のこころの働きにいかなる効果を及ぼすのかが論じられた。

次に、茅野大樹氏による発表では、罪や過失としての道徳的な誤謬の問題が扱われた。ここで言われる誤謬は、アウシュヴィッツ以後の人間の歴史的罪責、というより、そのようなものとして露呈した啓蒙と文明の社会に生きる人間の運命的な根源的罪責という意味での「過ち」である。本発表は、こうした誤謬の問題を、アドルノの思想を焦点としながら論じ、さらにそれをハイデガーとの関係で問うたデュットマンの著作も考慮に入れながら、「罪責の名」の経験へと展開した。

最後の三河隆之氏の発表でも、倫理的ないし道徳的な誤謬の問題が扱われた。本発表は、主にジャンケレヴィッチに即して、悪を条件とした人間の可謬性の問題、つまり、罪を犯すかもしれない可能性とつねに表裏をなす人間の行為・選択・決断の問題のなかでの「誤謬」ないし「過ち」を取り上げた。それをエコノミーという観点から再考し、またそこから、可謬的共同体という概念の提起へと至ろうと企てていた点が本論の特徴である。

これらの発表を承けて、コメンテーターの宮崎からは、三発表を要約するパースペクティヴの提示が試みられた。本パネルで問題になっているのは、要するに、「人類の存在論的誤謬」とでもいうべき可謬性である。そもそも人類の歴史は、既存の実定法や道徳観では到底解消したり贖ったりすることのできない、罪責の出来事によって織りなされている。人間の本質的な有限性に起因するこうした誤謬は、人々の想像力を凌駕する出来事をなす。しかし、ここでは、むしろ必然的に表象に失敗するという構造的な表象不可能性においてこそ構想力の役割が新たに問われているのである。こうした論点が強調されることで、コメントは本パネルの意義を方向づけた。

質疑応答では、コメンテーターによる各発表についての疑義のみならず、会場から、有意義な質問がいくつも提出された。これらの質疑は、カントの『判断力批判』や、アドルノ=ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』の解釈にかかわる専門的かつ重要な指摘から、ポパーの反証可能性のような本パネルが提起しえなかった誤謬概念についての問題、さらには、秋葉原の無差別殺傷事件における「過ち」の意味のような、昨今のいっそう具体的な問題にいたるまで、きわめて多岐にわたった。いずれも難問であり、パネラーたちの即興の回答では必ずしも十分に掘り下げることはできなかったが、質疑応答そのものは活発なものとなった。このように示された問題提起のうちに、本パネルが明らかにした射程の意義と拡がりは、十二分に示されていたように思われる。

大熊 洋行

茅野 大樹

三河 隆之

宮崎 裕助


宮崎裕助(新潟大学)


発表概要

崇高論におけるこころの働き方についての考察——『判断力批判』第一部解釈への一視点
大熊洋行

昨今、美学を感性論として捉え直す動きが活発となっている。その中で、カントの『判断力批判』にもその観点からの注目が集まっているが、小田部胤久が指摘するようにカント的な意味での「感性」の定義によっては、その観点においてこの書を利用することはできない。しかし、「感性論」という限られた視点から離れた時、われわれの経験の中でも極めて特徴的な経験である美と崇高の経験におけるこころの働き方について哲学的に考察した書という側面が照らし出されうると思われる。

それを受けて本発表では、この書の「崇高論」におけるわれわれのこころの働きについての記述を検討することで、自らを圧倒するものとの出会いという極限的な経験におけるこころの働きについて考察したい。その際、対象を捉える際の判断力その他の諸力の関係の仕方や、カント自身が指摘する道徳との関係が問題となろう。

『判断力批判』において焦点が当てられる人間の一側面に、しっかりとした概念に相当するものを持たない対象との出会いにおけるわれわれのこころの働き方がある。そこにおいては、概念がないゆえに言わば真偽が問えない場における経験が考察されている。しかし、その瞬間その場において真偽を問えない事態とは、有限であるわれわれにとってはむしろよく見られる事態であり、今回の考察は、その限りでより広い領域におけるこころの働き方の検討に、一つの寄与をなすことができよう。

贖罪からの倫理——テオドール・W・アドルノと思考の負い目
茅野大樹

すべての人間が謬りを犯しうる存在であり、過去に犯した謬りに対する咎めから逃れられない存在であるならば、人間は常に既に何らかの形で罪責を背負っている。テオドール・W・アドルノは、こうした我々が必然的に伴う罪責の問題に対する徹底した意識の中で思考し続けた思想家である。時にそれは生そのもの、社会そのものが既に誤謬と罪過の中にあることの認識として、そして時には強制収容所の死者に対する生き残った者の罪責感情として、様々な叙述のレベルにおいてその思索の中に刻み込まれている。しかしアドルノにおけるこうした「負い目」の態度は、単なる悲壮な現状認識なのではなく、むしろ批判的哲学が要請される前提条件そのものなのである。近年精力的な活動を続けている哲学者アレクサンダー・ガルシア・デュットマンの博士学位論文である『思惟の記憶』は、アドルノにおける「アウシュヴィッツ」の固有名の問題を「罪責(Schuld)」の観点から精緻に読解しており、こうした議論の基盤を提供してくれる。この論文を導きの糸としながら、しかしこの発表においては、アドルノにおける罪責の意識を、他者=死者への応答責任を要請する、優れて倫理的な身振りとして改めて捉えなおすことを目指したい。とりわけそこでは、罪責の問題を自己に内在的に省察することから、いかに他者との宥和=和解へと開くことができるかが争点となるだろう。

経済原理と特異性——可謬性概念を通じた共同体把握の試み
三河隆之

かつてリクールは、人間の可謬性の概念が人間の避けがたくもつ制限性との一致において把握されることの必要性を説き、カントが提示したカテゴリー(とりわけ質のそれ)を手がかりとしながら、制限性そのものとしての「脆い人間」のヴィジョンを提示した。そこに通底するのは、人間の存在・行為・共同体において、可謬性が超越論的なしかたで、常にすでに含み込まれているという現実把握に他ならない。リクールはこの規定から悪の象徴論を展開したが、本論ではそれを参考にしつつも別の理路を開きたい。その際、仮設的な問いを「必要悪の合理的容認はなされうるか」に設定する。メンバー全員の幸福の実現が不可能である場合、多数の幸福の実現という目的に資する限りで一部を犠牲に供することは許容される――これが功利主義の少なくとも通俗的な見解であるが、可謬性概念の導入を通じて、「最大多数の最大幸福」および(最低限の)犠牲の肯定という二つ組の共同体把握に代わる立場を提示することが、本論の仮想的到達地点となる。そこでは、多少とも統治的であらざるをえないシステム構築の視点と、特異なもの=単独者(le singulier)との間の決定的な共約不可能性が改めて問題化されるはずである。目下の参照項としては、ジャンケレヴィッチの経済原理論文および『二者択一』、ジラールや彼を承けたデュピュイの犠牲/共同体論、ないしボードリヤール晩年の作品などを想定している。