新刊紹介 |
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天内 大樹・大橋 完太郎・東辻 賢治郎・平倉 圭・柳澤 田実ほか(分担執筆)
柳澤 田実(編)『ディスポジション——配置としての世界』
現代企画室、2008年06月
離散のエチカ
ディスポジションという言葉が思想的な概念として機能することにはじめて気がついたのは、フランソワ・ジュリアンのLa propension des chosesを翻訳したときであった。それは同時に、日本語に翻訳困難な概念であることを知る経験でもあった。おそらく、それを配置と翻訳することは間違ってはいない。しかし、そのニュアンスを汲み取ろうと思うなら、それに加えて、たとえば勢という語を選択することも考慮しなければならなかった。形勢、態勢、権勢、筆勢等々、それは芸術・政治・自然学・軍事といったあらゆるジャンルを横断する概念であるからだ。わたしにとっては、このようにひどく苦労させられた記憶のある概念を、この書物の執筆者たちは自家薬籠中のものとして自在に使い、新鮮な論点を次々に提示している。ただただ感心して読むばかりであった。
その中で、心に残った論点に触れておきたい。まず最も考えさせられたのは、ディスポジションという配置の中に、離散的なベクトルが組み込まれているという論点であった。たとえば平倉圭のマティス論を見ると、「問題は、「一つ」であると同時に「ばらばら」であること」だと述べられ、コンポジション(共に-置く)とディスポジション(離れて-置く)の緊張関係がマティスにあると分析される。同様に、柳澤田実のイエス論は、イエスの行為的なあり方を「接近」と捉え、その上で「愛」を解釈し直すものだが、面白いのは、「乖離」について同時に言及し続け、それをイエスの絶えざる移動に結び付けている点である。
もしこうした離散的なベクトルがディスポジションに不可欠であるとすれば、それはもう一つの論点である、ディスポジションと倫理に関して重要な寄与をなすことになる。萱野稔人と染谷昌義の豊かな対話の中で、わたしたちに呼びかけられている問いは、ディスポジションという概念を立てると、その外は想定できないわけだから、倫理的な決定不可能性に陥り、せいぜい「よりマシな」配置を作るほかないではないか、というものだ。問題は何が「よりマシな」方向なのかだが、もしディスポジションに離散性が不可欠であるなら、それを抑圧しない方向は「よりマシな」方向かもしれない。しかし、この離散性をよりラディカルに理解して、ディスポジション自体が、行為によってはじめて開かれるような<外部>に自らを開くテンションを有しているとすれば、倫理相対主義と倫理絶対主義の間で新たなエチカを構想できはしないだろうか。それが再びスピノザに折り返されるとすれば、議論はさらに白熱することだろう。その際、大橋完太郎のデカルト論が示した、情念を再解釈することによってデカルトの「わたし」を世界の中に置き直す試みは貴重である。心身二元論とそれに対する批判の間で、「わたし」をディスポジションへの介入者として掬い取り、モラルの可能性を開こうとするからである。
このほかにも、本書にはCyclops論や建築論があり、興味が尽きることがない。これが本書の配置の妙であることは言うまでもない。(中島隆博)