第2回研究発表集会報告 | 研究発表3 |
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11月18日(日) 10:30-12:30 18号館4階コラボレーションルーム1
研究発表3:国家・政治・神話
オットー・ヘフラーの『ゲルマン人の祭祀秘密結社』における「死者の軍勢」をめぐって――群衆論としてのゲルマン神話学
田中純(東京大学)
ルドルフ二世の帝国理念における宗教観とその表象について
坂口さやか(東京大学大学院)
不可視の都市のヴィジョン――イワン・レオニドフのマグニトゴルスク・プロジェクトをめぐって
本田晃子(東京大学大学院)
【司会】高田康成(東京大学)
司会の高田康成氏は、「最近、刺激的なことがないんですよね」という一言でセッションを開始された。もちろんこれは(一般市民としての)感慨であると同時に(司会者としての)挑発でもある。しかし他方、これは単なる事実確認——もちろん必要にして不可欠な——であるのかもしれない。
実際、ショックを快感に、あるいは創造的なパフォーマンスに反転させうる出来事を「刺激的」というのであれば、司会の高田氏がselected fewと表現したこのセッションの幸運な聴衆が体験したのは、ひらすら「刺激的」な出来事であったといえるだろう。
排他的に選別された「身体」のマッスによって共同体の共同性——それは全体主義国家の全体性に限定されない——を仮構するさまざまな仕掛けは、いまなお(脱宗教化されたかたちで)文化のさまざまな局面で機能している。田中純氏の発表を貴重な導きとして、われわれはその事実に改めて注意をむけることになるだろう。
あるいは、坂口さやか氏の発表を聴いたあと、すぐさま家に帰ってだれも見ていないところで世界史年表と歴史地図を開いたりする人はいないだろうか。ひょっとしたら、科学史の教科書があればそれも手に取って、「近代的」な知におけるカバラとネオプラトニスムの位置づけを復習しはじめたりするというようなケースも想像できるだろう。
本田晃子氏の発表についてはどうか。アートにおけるテクノロジーとテクニック——最終的に前者は国家に帰属し後者は芸術家に帰属する——の安易な(あるいは無意識的な)混同がもたらす思考の単純化をくれぐれも避けるよう、われわれは警告のメッセージを突きつけられているのではなかろうか。
いずれも、当日のselected fewにとってすら断じて親密なものではない固有名から出発しながら、同時にそれが表象文化論というディシプリンの基本的な問題形成によって貫かれていることを示す発表であった。概要については以下を参照されたい。
田中 純
坂口 さやか
本田 晃子
高田 康成
REPRE編集部
発表概要
オットー・ヘフラーの『ゲルマン人の祭祀秘密結社』における「死者の軍勢」をめぐって――群衆論としてのゲルマン神話学
田中純
ワイマール共和国からナチ時代にかけてのドイツでは、ゲルマン神話学や民俗学の分野で男性結社論が集中的に出現している。そのなかで最も影響力のあったのはオットー・ヘフラーの『ゲルマン人の祭祀秘密結社』(1934年)だった。ヘフラーとナチとの密接な結びつきゆえに、彼が代表する男性結社論は、1945年以降、糾弾し克服されるべき過去の言説ではあっても、継承しうる課題を孕んだ理論とは見なされてこなかった。しかし、ゲルマン民族に実際に祭祀的な男性秘密結社が存在したのかどうかについて、決定的な解答はいまだ出されてはいない。ナチズムが神話的象徴の再活性化を目論むものであったことに関連して、同時代の神話学や民俗学は政治的な機能を帯びることを避けられなかった。学問的言説と政治的現実とが神話形成をめぐって相互作用しあっていたのだとすれば、ヘフラーのゲルマン神話学をナチ・イデオロギーの反映に還元してしまうのではなく、学問的言説それ自体を、ナチズムの核心で作用する宗教的・神話的想像力を解明する手がかりとして、重層的に解釈する必要がある。本発表はこうした観点から、「死者の軍勢」をめぐる神話を中心とした『ゲルマン人の祭祀秘密結社』の論述を分析することにより、そこに一種の「群衆論」を読み取ろうとする試みである。それは恐らく、「結社」と「群衆」との対立とエクスタシー的融合のダイナミズムをともなうことになろう。
ルドルフ二世の帝国理念における宗教観とその表象について
坂口さやか
古代ローマ帝国の政治的権威と聖性を継承する者として全キリスト教世界を統一すべき神聖ローマ皇帝にとって、統治理念と宗教とは元来切り離せない関係にあったのだが、1600年前後というルドルフ二世の時代には、宗教の問題が一層複雑になったことで、統治理念における宗教観の重要性はますます高まっていた。従来の研究では、ルドルフがカトリックにもプロテスタントにも猜疑心や不快感を持っていたことを述べた上で、キリスト教世界を統一するためにルドルフがユダヤ教(カバラ)、新プラトン主義等の思想を受容して、根源的・普遍的なキリスト教を構築しようとしていたことが論じられている。このことを実証するのが、ルドルフの聴罪司祭ピストリウスが編集して、皇帝に献上した大著『カバリストの技』である。ここにはパオロ・リッチやロイヒリンのキリスト教カバラに関する著作やエブレオの新プラトン主義的著作、さらに『創造の書』などヘブライ語文献のラテン語訳が所収されており、キリスト教・カバラ・新プラトン主義の調和への試みを見出すことができる。本発表では、このような試みから根源的・普遍的な宗教を追求しようとするルドルフの宗教観について述べ、それが彼の帝国理念においてどのような位置を占め、どのように表象されていたのかについて考えてみたい。
不可視の都市のヴィジョン――イワン・レオニドフのマグニトゴルスク・プロジェクトをめぐって
本田晃子
五カ年計画開始後のソヴィエト・ロシアにおいては、工業化と生活様式の社会主義化というスローガンの下に、生活の集団化と合理的な土地利用に基づいた社会主義都市(ソツゴロド)の建設が、喫緊の課題として浮上していた。都市と農村の間の軋轢を解消し、資本主義型大都市の問題点を克服する新たな都市空間の組織化をめぐるアーバニズム論争は、建築家のみならず、政治家や社会学者、経済学者などを広く巻き込んで行なわれた。しかしながら、本稿で取り上げる構成主義の新鋭建築家イワン・レオニドフによるマグニトゴルスク・プロジェクト案(1930年)は、単なる都市モデルの提示にとどまるものではなかった。同案は、マレーヴィチの無対象芸術の理念を継承したものであるという点においても、建築にとっての新たなメディア、すなわち建築雑誌の紙面/誌面をその唯一の敷地として展開したものであるという点でも、交通と情報の函数としての「虚の都市」であるという点においても、空間への直接的・物理的な現前に抵抗し、「建築」というプロセス自体の明証性を問題化するものであった。さらに、このような都市イメージを伝達するために用いられたのが、航空写真という20世紀初頭の視覚体験から構成された視点だった。観者は、このような無重力化された機械の眼のヴィジョンに自らを同化/異化することによって、未来の社会主義都市の世界感覚を先取りしたのである。