第2回研究発表集会報告 | 研究発表2 |
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11月17日(土) 16:10-18:10 18号館4階コラボレーションルーム3
研究発表2:映像メディアとその時代背景
「記録映画作家協会」と「映像芸術の会」、そして不可視の芸術運動へ
阪本裕文(名古屋市立大学)
軍人監督による「中国革命戦争映画」
劉文兵(早稲田大学)
明治期における「国葬」の創成とそのメディア表象――伊藤博文の国葬を中心として
研谷紀夫(東京大学)
【司会】北原恵(甲南大学)
「映像メディアとその時代背景」では、北原恵氏の司会のもと、異なる国・時代・メディアを対象とした三つの発表があった。
先鞭をつけた阪本裕文氏は、松本俊夫の1950年代後半から60年代における批評活動・映像製作を総括し、映像芸術を社会主義リアリズムに迎合させる立場を乗り越え、ドキュメンタリーと芸術のアヴァンギャルドの止揚、すなわち、既存概念を揺さぶるように流入してくる現実である「外部」の導入=ドキュメンタリーと、外部と対立する主体性である「方向化されない力」=アヴァンギャルドの総体的把握へと向かう松本の論理をあぶりだした。例として、記録映画『西陣』(1961年)の冒頭が上映された。
続いて劉文兵氏が人民解放軍の兵士の武勇伝を題材とした中国革命戦争映画『董存端』(1955年)の現代における受容を例に、現代中国における歴史表象のニ側面を論じた。すなわち、歴史的事実に物語性が導入されることで英雄的に神話化された董存端の表象をめぐって、一方でユートピア的なナショナル・アイデンティティへの希求が、他方で神話に隠された事実の追求が、現代のメディアでせめぎあう様子を具体的に描き出した。
最後に、研谷紀夫氏が、伊藤博文の国葬を例として、国家イベントのメディア表象の形成について論じた。国葬はメディア環境の発達に伴い、複数の媒体で広く大衆に伝えられるようになったが、伊藤博文の国葬において各メディアの表現手段・役割が定型化した。特に、小川一眞による写真帳は、国葬の経過、隊列を写し取るフレームを示し、その後の国葬のイメージ化に一定の影響を与えたことを示した。
各発表に対し活発な質疑応答がなされた。特に、映像メディアと他の媒体(活字媒体など)の関係、政治権力の映像メディアに対する影響、日本と中国における社会主義リアリズムの異同といったテーマを巡って意見が交わされた。
阪本 裕文
劉 文兵
研谷 紀夫
北原 恵
斉藤尚大(都立豊島病院神経科)
発表概要
「記録映画作家協会」と「映像芸術の会」、そして不可視の芸術運動へ
阪本裕文
松本俊夫は50年代より「記録映画作家協会」において、そして「映像芸術の会」において、芸術運動の場、批評的連帯の場の形成を模索し続けた。60年安保と前後して「記録映画作家協会」で松本俊夫を中心として論じられたドキュメンタリーとアヴァンギャルドの止揚という課題は、当時の花田清輝によるテーゼの映画領域における実践であり、戦中から記録映画に携わった日共支持派との対立を呼び起こした。そして64年にこの対立は松本、野田真吉ら作家主体派の脱会という結末に至る。その後松本らは「映像芸術の会」を設立、新たな芸術運動の場、批評的連帯の場の形成に向けて奔走することとなるが、この「映像芸術の会」も長くは続かず、やがて解散へと至る。何故この時代を通じて松本は芸術運動の場、批評的連帯の場を最大の目的としていたのか。そして何故70年代に入り、松本はドキュメンタリーから遠ざかり、形式主義ともとれる実験映画へと傾倒していったのか。何よりもかつてのドキュメンタリーとアヴァンギャルドの止揚という課題、すなわち芸術における外部の世界と内部の世界の止揚はどのように決着させられたのか。これらの問いの答えをこの時期に制作された作品、および当時の政治/状況から読み解いてゆきたい。
軍人監督による「中国革命戦争映画」
劉文兵
中華人民共和国が成立した1949年から文化大革命が勃発した1966年のあいだに数多くの「中国革命歴史題材電影(中国革命戦争映画)」が製作されていた。もっとも、この時代の中国映画はプロパガンダ的な性格を色濃く帯びているために、これまで欧米や日本の中国映画研究においては研究対象から意図的にはずされるか、もっぱら「戦意高揚のプロパガンダ」、「陳腐な社会主義リアリズム」といったステレオタイプ的なイメージによって捉えられてきた。しかし、これらの映画の多くが、いわば国民的映画として、50~60年代当時の中国の観客によって熱狂的に受け入れられたばかりでなく、今日においてもなおも中国国民によって記憶され、消費されつづけているという事実を見逃してはならない。本発表は、これまでの研究において充分なかたちで扱われてこなかった「中国革命戦争映画」に焦点を当て、映画というメディアが新中国の歴史の神話化のプロセスのなかで果たした役割について考察する。第一節では、軍人映画監督が新中国映画の担い手となるという映画史的にきわめて特殊な現象を検証することをつうじて、「革命戦争映画」というジャンルの確立を可能とした新中国の映画システムの構造を明らかにする。第二節では、中華人民共和国建国初期の「革命戦争映画」におけるヒロイズムの表象に着目し、その主なパターンと特徴を明らかにしたのち、第三節では、映画『董存瑞』を例に、物語化された〈歴史〉がいつの間にか公式的な歴史として語られるようになるという傾向に注目することによって、〈歴史〉と〈物語〉との交錯関係における複雑なパワー・ポリティクスを解明するとともに、今後の中国の歴史表象のあり方と可能性を検討していきたい。
明治期における「国葬」の創成とそのメディア表象――伊藤博文の国葬を中心として
研谷紀夫
日本では戦前を中心に、明治維新や戦争などの国家功労者の死去に際しては、国が国葬を執り行う慣例があった。しかし、明治初期の岩倉具視や三条実美などの国葬においては、各種のメディアの技術や規模が発展途上期であったため、国民がメディア上で国葬の詳細を知るには至らなかった。その後、明治30年代後半に、写真・写真張、活動写真、新聞・雑誌、絵葉書などの活字・ビジュアルメディアの発達すると、弔事である国葬も、様々なメディアによって、詳細にその内容が伝えられ、国民がメディアを通して国葬を追体験することを可能とした。その契機となったのが明治42年の伊藤博文の国葬であった。伊藤の個人的な知名度と人気の他、海外で暗殺されたというニュース性が加わり、日清・日露戦争を経てその表現技術と影響力を増したメディアは、伊藤博文の国葬を実況し、“国民”の記憶を呼び起こし、ナショナルイベントとしての国葬を記念する様々な絵葉書、写真集、書籍を発行した。そしてこれらの国葬におけるメディアの活用の仕方は、その後の明治天皇の大喪の他、大正から昭和期の国葬におけるメディアを使用法の基礎となった。本研究では、伊藤博文の国葬と、そのメディア表象及び表現法に焦点をあてることによって、戦前期に、様々なメディアを通して喧伝された国葬が、ナショナルイベントとしてどのように国民共同体の一つの記憶を形成する補助手段となったかを考察する。