第2回研究発表集会報告 | 表象ダイアローグ |
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11月17日(土) 13:00-14:00 18号館4階コラボレーションルーム1
表象ダイアローグ「ドスエフスキーを書く」
【対談】亀山郁夫(東京外国語大学)・松浦寿輝(東京大学)
【司会】浦雅春(東京大学)
「カラキョウ」というのだそうだ。ドストエフスキーの大長編『カラマーゾフの兄弟』をつづめてそういうのだ。発売以来異例な売れ行きを記録し、50万部を突破した亀山郁夫氏の新訳『カラマーゾフの兄弟』が巻き起こした空前のブームの結果である。
当の亀山氏は翻訳の大仕事を成し遂げた疲れもどこ吹く風と、『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』(光文社新書)を書き上げたばかりか、さらに『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)まで上梓した。もはや神懸かりというほかない。
亀山 郁夫
松浦寿輝氏も言うように、本来「読み」とは、作者の真意をできるだけ正確に読み取ることにある。作者の上位にミューズを想定するなら、ミューズ→作者→読者というヒエラルヒーが存在する。その意味では書かれなかった『カラマーゾフ』の続編を空想することは、審級にとらわれない読者の権利を取り戻すことであり、亀山氏は創造行為として「読み」のあり方を復権したといえる。
ところがどうやら、亀山氏は翻訳者の審級をも踏み越え、作者との共犯関係にあるらしい。みずからを翻訳者というより速記者に近い自負する氏は、本人の言葉にならえば、ドストエフスキーに憑依したのである。
松浦 寿輝
これに関連して興味深いのは、ドストエフスキーとのちに彼の妻となる速記者アンナ・スニートキナの関係だろう。どうやらこの二人は作家と速記者という立場を越えてコラボレーションの関係にあった。互いの息づかいまでもがひびき合う口述筆記の作業は二人を深い対話的な関係で結びつけた。ここからバフチンの言う対話的関係の見方が新たな光のもとに引きずり出されることになるだろう。このことはまた、ドストエフスキーが公的な検閲に直面していただけではなく、さらに私的な空間においても内なる検閲にさらされていた事実を浮き彫りにする。
浦 雅春
この外と内の検閲はドストエフスキーに二枚舌の戦略を選ばせることになった。ドストエフスキーは作品の奥深くに巧妙な「謎」のネットワークをしのばせる。先の二著をはじめ、翻訳『カラマーゾフの兄弟』に付した解説、『ドストエフスキー父殺しの文学』や『「悪霊」神になりたかった男』など、氏の一連のドストエフスキー論は、作家が仕掛けた「謎」や「罠」を相手に快刀乱麻を断つ力業にほかならない。
それにしても『カラマーゾフ』の空前のブームの原因はどこにあるのか。「現代の読者には〈父殺し〉や〈皇帝殺し〉というテーマが喚起する扇情性が薄れてしまっているのではないか」と亀山氏は危惧する。「もし神が存在しなければ」と仮定したのはほかならぬドストエフスキーだが、どうやら私たちは仮定が現実となった世界の只中にいるらしい。
浦雅春(東京大学)