第2回研究発表集会報告 研究発表

11月17日(土) 16:10-18:10 18号館4階コラボレーションルーム1

研究発表1:知覚・世界・哲学

ノマドの暗い底――ジル・ドゥルーズのライプニッツ解釈における「動物的モナドロー」について
千葉雅也(東京大学大学院)

「両耳聴」理論と聴覚器具――19世紀後半の「示差聴診器」の事例を中心に
福田貴成(東京大学大学院)

崇高の感覚、崇高の情動
小菊裕之(立命館大学大学院)

【司会】千葉文夫(早稲田大学)


ここで行われたのは、さしあたって互いに独立した以下の三つの個人発表だったのであるが、結果としてそれらはいずれも、通常は明るい認識の入り口だと考えられる知覚・感覚が実は自らの内に捉え難い存在の深淵を潜ませている、ということを示すこととなった。これは今後の「表象文化論」の一つの方向性を示唆しているのかもしれない。

千葉雅也(東京大学大学院)「ノマドの暗い底:ジル・ドゥルーズのライプニッツ解釈における「動物的モナドロジー」について」:
スピノザを、受動性としての身体的な「闇」を認識によって喜びと能動性へと引き上げて行く「光」の哲学者として解釈するドゥルーズは、自身もまたこのスピノザな系譜に連なる強度と肯定性の人としてイメージされるのが一般的である。しかし、ライプニッツのモナドロジーを動物の存在との関わりから解き明かしてゆく『襞』のドゥルーズは、生き物には他者と通底する我有化しきれない「闇」があり、それこそが身体の在り方に他ならないとする。モナドとしての私たちは、認識の光と身体の闇とが綾なす影(この語が光と闇の双方を意味し得ることが思い出される)の底へと耳をそば立てつつ常に他者の訪れに備えて待機しているのであって、そこには、理性と能動性を通して目的論的に志向されるものとは異なった共存在の可能性が秘められている、あるいは既に働き始めていると言うことができよう。

福田貴成(東京大学大学院)「「両耳聴」理論と聴覚器具:19世紀後半の「示差聴診器」の事例を中心に」:
19世紀前半にフランス医師ラエンネックは両耳が独立した「示差聴診器」なるものを考案した。その後、この器具が示す左右の音の差を利用した「診断法」が幾人かの人々によって提出され、また、音量と音質が左右で異なる場合の聴こえ方に関するいくつかの「法則」が「発見」された。今日こうした診断法や法則はその妥当性をほとんど認められてはいないが、ここで興味深くまた重要な点は、歴史の徒花のようなこの奇妙な器具が、今日では「音源の定位」として理解されている両耳聴の質的意味をこうした合目的性からの理解とは別の文脈に置いて(ただしここには診断という別の目的性が働いている)、孤独な知覚の遊びとでも言うべき位相を垣間見せたことにある。恐らく、このような位相は知覚を巡る言説や理解に必ず伴うものであり、私たちはそれによる混乱と可能性の双方に注意深くあることが必要だろう。

小菊裕之(立命館大学大学院)「崇高の感覚、崇高の情動」:
前衛芸術や資本主義との関係から語られることの多いリオタールの崇高論であるが、それは『判断力批判』におけるカント崇高論を批判的に継承したものとして読解することができる。その際に鍵となるのは、カントにおいては周辺的に位置に置かれている感情あるいは情動の重要性を、「エステティックな(感覚/美学な)」ものとの関係において評価しなおすことである。確かに、崇高とは判断の問題でありまた判断は思考の働きでもあるが、思考とは、他なるものが外から感覚を触発することによって生じるものであり、そこには常に形式化不可能な「外」の内なる痕跡が刻み込まれている。感情や情動とはこの「生まれたてのアニマ」の残響に他ならないのである。こうして、崇高論を深化させることは必然的に一つの存在論にまで至らざるをえないことが示される。

千葉 雅也

福田 貴成

小菊 裕之

千葉 文夫


串田純一(東京大学大学院)


発表概要

ノマドの暗い底――ジル・ドゥルーズのライプニッツ解釈における「動物的モナドロー」について
千葉雅也

ジル・ドゥルーズの哲学においてその他者論の核心にある「動物への生成変化(devenir-animal)」は、主としてヤコプ・フォン・ユクスキュルの動物生態学とスピノザ『エチカ』における身体論を思想史的背景としている。だが、本発表があらためて強調したいのはライプニッツ哲学の意義である。ユクスキュルが描いた動物世界、すなわち経験の可能性が狭く限定された「環境世界」は、「窓がない」と特徴づけられる「モナド」のあり方とも重なっている。1960年代後半のドゥルーズは、各モナドがひとつの「共可能的(compossible)」世界に属するというライプニッツの神学的要請をたびたび論難し、「共不可能的(incompossible)」な他性を肯定する「遊牧民」(ノマド)の思想をそれに対置していたが、ノマドとはいわばモナドの〈無窓性〉をさらに徹底した存在だと、そして「環境世界」の限定性をさらに激化させた孤独な動物であるとも言える。こうした観点から本発表は、『襞——ライプニッツとバロック』(1988年)おいて、やはりユクスキュルへの言及を伴って論じられる「動物的モナドロジー」というテーマについて考察する。そこで分析されるのは、かつて論難された共可能的世界の予定調和にむしろ内在する他者性のありかを、「暗い底」と表現される自己−モナドの「身体」のうちに見出していくドゥルーズのライプニッツ再読である。

「両耳聴」理論と聴覚器具――19世紀後半の「示差聴診器」の事例を中心に
福田貴成

聴診器が「両耳型」化されるのは、ラエンネックによるその発明から約30年後の1850年代の事であったが、その後19世紀後半を通じて、「両耳型」聴診器はイノヴェーションを重ね、様々な発展的形態の物が作られてゆく。その過程で生み出された新型聴診器の中には、現在の視点からは一見して有用性を認め難い形状・構造を持つ物も存在している。本発表で中心的に取り上げる、二つのチェスト・ピースを持つ「示差聴診器」もまた、そうした徒花的な技術開発の一例である。しかし、臨床診断的観点から見た場合の「診断器具」としての非合理性とは対照的に、それは同時期の聴覚研究の成果に基づいて構成された、合理性を標榜する一個の「聴覚器具」でもあり、従ってそこには往時の聴覚観とりわけ「両耳聴」に関する同時代的認識の一端を見ることが可能である。本発表では、示差聴診器の開発者スコット・アリスンの残したテクスト及び示差聴診器に関する他の医師の論考の読解を通じて、そこにどのように往時の「両耳聴」認識が埋め込まれているかを考察する。特に、アリスンの言及するチャールズ・ホィートストーンの1830—40年代の諸論考との関連が議論のポイントになる。関連で同時期他分野の「聴覚器具」動向、及び生理学的観点から発展した同時期の両耳聴研究動向の概略にも触れ、「聴覚理論」と「聴覚器具開発」との相互交渉の様相の描出を試みたい。

崇高の感覚、崇高の情動
小菊裕之

J-F・リオタール(1924-1998)は、1980年代以降、講演「崇高と前衛」に代表されるような、崇高を巡る問題圏についての数多くのテクストを書いた。しかし、それらの中で、崇高の美学の創始者と言うべきI・カント(1724-1804)の名が挙げられることはあっても、彼に対する直接的な言及、彼の崇高の分析論そのものについての言及はあまりなかったように思われる。しかし、1991年に『崇高の分析論講義集』が出版されたことにより、彼がカントの崇高論をどのように受容しているかを知ることが可能になった。それによって、リオタールのそれまでの崇高論にも、新たな光を当てることが可能になったように思われる。とりわけ、1980年代後半のリオタールが「(非物質的)質料」という概念で規定したもの、これは、それが前衛芸術について述べられたものであるということとはまた別に、彼の崇高論において重要な問題を開示している。すなわち、カントとは異なり、もっぱら感性的なものの領域で考えられた、彼の崇高論における感覚と情動の問題である。そこで、本発表で検討したいのは次の事柄である。すなわち、もしも、リオタールの言うように、構想力による現前化以前の純粋な「質料」が、感覚不可能なものとして、感覚の内部に潜んでいるとすれば、そのとき、未分化の快や不快という、言わば原初的な情動のうちにはいったい何が潜んでいるのだろうか、そして、リオタールはそれらをどのように位置づけているのだろうか。