国際イベント

ベニス・ビエンナーレ報告会@Musashi
「わたしたちの過去に未来はあるのか」
香川 檀

〈場〉の記憶を擦りとる――美術家、岡部昌生氏がフロッタージュ技法を使い行なってきた作品制作は、例えばそう言い表せるだろうか。街路や壁や床の表面に紙をあててその肌理を摺りだすことで、堆積した時間を痕跡として浮きあがらせる。なかでも原爆の都市ヒロシマの旧国鉄「宇品(うじな)」駅プラットホームの縁石を擦りとった1000余枚のフロッタージュが、2007年度の国際美術展「ベニス・ビエンナーレ」日本館の出品作となったことは、いまだ記憶に新しい。ビエンナーレ閉幕から1ヶ月たった昨年12月20日、同館のコミッショナー港千尋氏(写真家、批評家、多摩美術大学教授)と岡部氏を武蔵大学に招き、現地での体験を振り返っていただいた。


「会期が終わって、ホッと肩の荷をおろした」という港氏から、「これまで岡部さんに訊きたくても訊けなかった」といういくつかの質問――それも作品の根幹に関わる問い――が向けられた。その一つが、それまで版画的な技法に拠っていた作家がフロッタージュに転じたきっかけは何か、というもの。岡部氏によれば、高校で安保闘争に加わり大学で美術を始めたとき、社会とつながる表現として新聞などを使った写真製版を採用したが、ネガ-ポジ-ネガ…という複雑な工程を経なければならないので、直接性を捉えるにはあまりに遠い道のりに感じた。悩んだすえ、版をつくるメカニズムを放棄し、現場に立って身体を使う、〈場〉に直接さわる、というフロッタージュに出会ったという。「写真家はそのネガ-ポジの過程を我慢してやっている(笑)」と応じつつ港氏がいみじくも指摘するのは、フロッタージュにはそれでも写真的プロセスが潜んでおり、擦りとる作業は暗室での写真の現像に似ていることである。

写真による記録行為との類似と並んで、岡部氏の仕事ぶりはどこか民俗学、社会学、考古学の調査にも似ている。ベニスに現地入りして作家が注目したのは、島内に無数にある広場の、今は使われていない井戸だった。調べてみれば、水の都ベニスは歴史的に飲料水の確保が生命線であったため、技術の粋を尽くした見事な井戸が多く作られたという。現在は過疎にあえぐ都市ベニスの、往年の繁栄を物語る遺構にすぎない井戸が、かくして新たなフロッタージュの〈版〉となる。そして、一緒に擦りとる人や見物人といった周囲とのコニュニケーション、それも予想のつかない偶然の展開が生まれていく。

氏のもう一つの質問は、岡部氏の作品制作プロセスにはつねに〈他者〉の存在が期待されているのではないか、という問いである。岡部氏はそれに答えて、人だけではなく、都市、空間、時間、それら作品の成り立ち要因すべてを〈他者〉と名づけ、向き合っているのだという。フロアから「岡部氏の作品には、ミュンスターやカッセルの美術展出品作とは異質なものを感じて感動した」という声があがり、港氏はその異質性を、氏の作品制作に潜在する〈他者性〉に照らし、人が自己の枠組のなかで他人に共感する〈シンパシー〉ではなく、他者からやってくるものへの応答としての〈エンパシー〉なのだと説明された。

じつは私は3年前に岡部さんを、一昨年には港さんをゲスト講師に招いた経緯がある。ベニス・ビエンナーレの企画プレゼン公募があったのはその直後のこと。不思議な縁で導かれた成り行きを、港氏は「美術における〈縁〉」と呼んで、岡部氏の作品制作における偶然性と関連づけてくださった。この報告会も、他者の呼びかけに応答する岡部氏の作品の一部ではないか。ふとそんな気がした。

香川 檀(武蔵大学)