PRE・face

多孔質の科学――「二つの文化」の相補性
田中 純

福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』には、生物をかたちづくるタンパク質同士の相補性をめぐるこんな一節がある。

「相補性はしばしばこのようにきわめて微弱で、ランダムな熱運動との間に、危ういバランスを取っているにすぎない。パズルのピースはぴったりとは合うものの、がっしりとは結合せず、かすかな口づけを繰り返す。相補性は「振動」しているのだ。この点がジグソーパズルの固定的なイメージとは異なる。」

これは、蛍光で標識を付けられたタンパク質が、顕微鏡の焦点深度内に固定されたもうひとつのタンパク質にくっついたり離れたりを繰り返すことで、検出深度から出たり入ったりすることにより、蛍光が明滅する現象について述べたものである。タンパク質のふるまいが、「かすかな口づけ」のイメージによって、にわかに「生き生きとした」ものになる。相補性の振動はそのとき、紛れもない「生命」の営みとして感知される。

アナロジカルなレトリックの巧みさだけを指摘したいのではない。啓蒙書だから許される不正確な比喩と切り捨てるべきでもない。このような表現を直接用いるかどうかは別として、生物学、生命科学の最前線で観察された現象が、科学者の想像力にこうした連想を誘う可能性は十分想定する余地があろう。そして、科学の経験を伝えるとは、このような「翻訳」に場を与えることでもあるはずだ。

福岡氏の著書には、生命の本質である動的平衡状態を、浜辺にあって絶えず部分的に崩されては築かれる砂上の楼閣に譬えた記述がある。海が陸地に接する場所に生命の謎を解く破片の散逸を認めるその視点は、思いもかけず、わたし自身が拙著『都市の詩学』をまとめるなかでたどり着いた、都市をめぐる想像力が繰り返し帰還する場所としての、波打ち際という境界のトポスの発見に呼応していた。例えば、拙著の導き手の一人である建築家アルド・ロッシは、渚に流れ着いた海貝のイメージのなかに都市や建築の原型を認め、筏に乗って浮かび漂う「世界劇場」という実作により、汀からの出発と汀への到着を反復する建築を作り上げていたのである。

あるいはまた、ヴァルター・ベンヤミンはナポリを多孔質の都市と呼び、まさしく崩壊と建造との錯綜こそがその特徴だと指摘していた。それは、ナポリが動的平衡状態にあって生きている、極めつきの「生命」であるということではなかろうか。なるほど、これはアナロジーだが、ここで問題にしたいのは、そのアナロジーによってはじめて発見されるような論理なのである。

福岡氏の叙述がもつ魅力は、三木成夫の生命形態学やシャーンドル・フェレンツィの『タラッサ』といった異形の生命論のそれと、決して無縁ではないように思われる。彼らの生命論とはいわば「波打ち際の知」だった。この知は実証的言説と虚構との瀬戸際にあるがゆえに、安定した言説体系が与えてはくれない「生命」に満ちている。それを厳密な実証科学の埒外に置いて事足れりとする身ぶりは、多くの科学もまたフィクションによって支えられた「砂上の楼閣」であることを自覚していない。生命論が位置する位相を明らかにするには、自然科学の言説まで視野に入れたフィクション論が不可欠だろう。

言説においてはフィクション論、視覚的次元では(拙著がささやかな提案をおこなった)イメージ論によって、自然科学の知に対して人文科学が「相補性」を発揮する局面はきっと開拓できるはずだ。そして、それが可能な、それを志すべきディシプリンとは、何にもまして表象文化論ではないのだろうか。蛍光標識タンパク質の口づけのように、科学が生命を帯びて振動する瞬間を眼にしたいと思う。多孔質の科学――そんな野心的な試みの予感が、思考の意識と無意識の汀で震えている。

2008年1月
田中 純(東京大学)