第2回研究発表集会報告 | レクチャー・セミナー |
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7月17日(土) 14:20-15:50 18号館4階コラボレーションルーム1
レクチャー・セミナー「現代文化理論の射程:竹峰義和『アドルノ、複製技術へのまなざし』を端緒に」
【著者】竹峰義和(埼玉工業大学・武蔵大学ほか非常勤)
【コメンテーター】清水一浩(日本学術振興会特別研究員)・杉橋陽一(東京大学)
【司会&コメンテーター】堀潤之(関西大学)
レクチャー・セミナー「現代文化理論の射程:竹峰義和『アドルノ、複製技術へのまなざし』を端緒に」が、11月17日14時20分より、東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1にて行われた。本会は、直接的には本学会員である竹峰義和氏(武蔵大学ほか非常勤)の著書(『アドルノ、複製技術へのまなざし――〈知覚〉のアクチュアリティ』青弓社、2007年)の書評会であり、関連分野の研究者からのコメントを交えながら、そこから導出される現代文化を思考するためのアドルノ理論の射程と可能性について検討した。著者の竹峰氏に、司会は堀潤之氏(関西大学)(堀氏はコメンテーターも兼ねる)、コメンテーターに清水一浩氏(日本学術振興会特別研究員)と杉橋陽一氏(東京大学)を迎えて行われた。
まず、司会の堀氏が、新資料を総動員してアドルノの〈実践〉を明らかにすることによって、徹底して文化産業を批判した思弁的で孤高の哲学者という従来のアドルノ像に修正をせまったものとして本書を紹介した。
清水氏は改めて本書の意義を説明し、本書がアドルノの複製技術論の再読の可能性を読者に開くものとなったことを確認した。その際、清水氏は「文字(Schrift)」概念と「打つ(schlagen)」という言葉の反復に注目する竹峰氏の切り口を前景化し、加えて、「アドルノ以後のアドルノ」の理論と実践の継承について、アレクサンダー・クルーゲという具体的参照点を示唆した点を評価した。さらに清水氏は二つの疑問点を提起する。まず、クルーゲにみられる「アドルノ以後のアドルノ」理論の可能性をより具体的な実践という観点から問うならば、それはどのようなものとなるのか。次いで、「解放された芸術」という理念や「自然美」というもののステイタスを、なかでも時間性の観点からみて、アドルノはどのようなものとしてかたどろうとしていたのか、という問いである。
清水 一浩
杉橋氏は、指導教官としての竹峰氏との出会いと本書の「叙述」のスタイルの魅力について述べた後、特に「アパリシオン」概念について質問を提出した。「アパリシオン」は「高度な文化」にも「低次の文化」にも見出されるエッセンスだが、この概念はなぜ、遺著となった『美学理論』にだけ登場したのか。そして、ここからさらに問われるのは、「アパリシオン」概念をアドルノの思想全体においてどのように位置づけ、説明することが可能か、ということである。杉橋氏の問いは「自然美」を巡る清水氏の問いと共鳴している。先の清水氏の質問が結局、時間という観点から、「自然美」が美として現れ、「解放された芸術」が(なおも「芸術」として)立ち現れるのだとすると、その場合の「現れ」である「アパリシオン」の理論的説明とはどのようなものかを問うたものであったからである。
杉橋 陽一
堀氏は映画研究者という立場から第四章「闘う映画音楽」を最も興味深く読んだと述べ、まず竹峰氏の読解に沿って、アドルノ/アイスラーの『映画における作曲』の基本的モチーフを再確認した。その上で、映像と音楽を弁証法的に拮抗させることによって「ハンドルング」の流れを中断するという彼らの中心的な戦略が、アドルノも批判的であったはずのブレヒト理論にかなり接近していることに注意を促し、そのような戦略は、60年代以降の映画の理論・実践に幅広く導入されたブレヒト的な戦略と同じく、文化産業に回収されてすでに有効性を失っているのではないかと指摘した。そして、むしろ『映画における作曲』のうちブレヒトを超え出る部分――「ウィット的なもの」や「映像メディアの幽霊性」概念など――に注目することこそが、この書物を映画理論に活かす道なのではないか、としてコメントを結んだ。
堀 潤之
竹峰氏は三者から提起された問いを「自然美の時間性」、「アパリシオン」、「映画論としての射程と限界」として整理し、応答した。まず、「自然美の時間性」の問いに関して竹峰氏は、それがアドルノにおいて過去と未来の交錯点にある「ミメーシス的な知覚」を巡る問いであることを確認した。「アパリシオン」について竹峰氏は、芸術作品が自己超越化する「瞬間」としてこの概念を規定するならば、そのような「瞬間」こそ、この思想家が一貫して追求したものとして評定できるということを示した。つづいて、「映画論としての射程と限界」に関して、アドルノ理論の古さについては認めながらも竹峰氏は、アドルノのテクストを書かれた当時のプラグマティックな要請や特定の時代において読む必要を改めて強調した。そのうえで、「ゲリラ戦」や「密輸入」というアドルノの戦略が 〈対処療法的〉な性質であったとするならば、我々もまた、現代において文化産業的なシステムに抵抗するための新たな方途を探ることが求められているのではないか、そして、そのためのヒントが、アドルノの後期美学や、クルーゲのテレビ制作者としての実践的活動のなかに潜んでいるのではないか、と示唆することによって本会を締めくくった。
竹峰 義和