新刊紹介

中島 隆博
『残響の中国哲学――言語と政治 』
東京大学出版会、2007年09月

蠢きを途絶えさせないこと

それがどこであれ、人はどこかに住まう(dwell in a place)。つまり人は場を取り、場を分ける。言い換えると、場は取り-分ける(take part in)人の行為によって生まれる。それゆえ場は人と共に構成されると同時に、人は場に参加することによって現存しうる。ここに手つかずの、所与の、自然的なものは何もない。人が住まい、場が人を住まわせるのは、すべて人の手による作為である。ここに言語が、政治が、歴史が、一つの透明な起源ではなく、常に多くのどんよりとした来歴を持つ分けがある。というのも、人に固有な言語-政治-歴史は、人と共に生成する場から由来するものであり、その根源が取り-分けることである限りにおいて、言語-政治-歴史にはあらかじめ暴力と排除が内在しているからだ。すなわち、すでに分割されている人に固有な諸々の営みは、様々な一なるものへの熱望を裏切るのである。そして周知のとおり、こうした熱望に附された名こそは哲学に他ならなかった。

ならば哲学はすでに裏切られる運命の下で固有の歴史を歩んできたのだろう。枚挙に暇がない大家たちがこの運命に戦いを挑み、ときにはそれに殉じ、またときには抗ってきた。だがその戦いもまた哲学であるゆえに、それは自らを裏切る営みでもあった。この哲学という奇妙なパラダイムを根底において見すえたうえで、著者の中国哲学に対する脱構築は始まり続いていく。すでに哲学をパラダイムと言い放つ著者にとって、哲学はもはや何らかの伝統でもなく、ましてや厳格な方法的準則によって導かれる知の実践でもない。それはどこまでも歴史的な構築物にすぎず、それゆえなんらかの暴力と排除を内在させている。つまりそれは、人の手に始り、人の口で表現され、人の身体に痕跡を残す、言語と政治の総体なのだ。

哲学の他者としての中国は、それゆえ、弁証法的に統合されるべき対象ではなく、あらゆる統一の試みを跳ね除ける究極の他者として脱構築されねばならないのだろう。というのも、哲学が他者として内包し、自らがそのなかに住まうことを選択した中国哲学は、人の営みにおける根源的な分割を覆い隠そうと熱望してきた哲学というパラダイムの最良の助力者に他ならないからである。それゆえ著者の選択は、中国哲学に哲学としての権利を取り戻すのではなく、中国哲学を通して哲学としての権利そのものを問い返すことであり、その問い返しを通して、哲学そのものを脱構築することである。ここにおいて哲学は外から訪れる友と共に、人と場にまつわる暴力と排除を直視し続ける視座を開くだろう。そのために著者は、エコノミーに反するエクリチュールという自らの原則を裏切ってまで、未知の友に語りかける。この切なる語りかけへの応答は、それゆえ、哲学を裏切ること、すなわち自らを裏切る運命の哲学を裏切り続けることに他ならない。そのとき残響は残響として、途絶えることなく、したたかに蠢き続くだろう。(金抗)