トピックス 1

第6回表象文化論学会賞受賞式

(2)選考委員コメント

北野圭介

表象文化論学会のようなダイナミックな交通の場では、異なる分野の旺然たる論考が競い合うというのは避けがたく、またそれこそが醍醐味でもあることは承知しているものの、評者にはそうした才能の饗宴を的確に測定する術はないというのが正直のところでした。学術作法の貫徹度、探求の深みや独創性といった点は、候補作はいずれも甲乙つけがたく、異なる地域における異なる創造実践をそれぞれ対象として扱うかくも密度の濃い論考群を、いずれの地域にも対象領域にもあかるいとはいえない者が適切な仕方で論評することなどおよそできないという思いがあったわけです。

とはいえ、任を引き受けたからにはなにがしかの役回りは引き受けざるをえないこともまた間違いなく、思案していたところ、すべての候補作にとにかくもまず目を通した際、吃驚した点がひとつあり、そこからはじめるしかないと思うにいたりました。すなわち、いずれの研究も、広い意味でのメディアないしメディウム、あるいは表現媒体をめぐる問題系に陰に陽に触れていたという点がありました。文学を論じるにせよ、絵画を論じるにせよ、建築を論じるにせよ、もっといえば哲学を論じるときであってさえ、表現(あるいは表象)をとりあつかうときに媒体の問題が、大きくクロースアップされ、考察に厚みをもたらす方途として積極的に導入されていたわけです。まがりなりではあるもののメディア研究の片隅で仕事をしている者として、その驚きをてこにして何か評言を組み立てる努力をしてみよう、そう心に決めて審査委員会にのぞみました。審査委員は異なる分野より選ばれており、みなさんバランス感覚の或る方ばかりとお見受けしましたので、ひとりくらい野蛮であっても許してもらえるかもしれないという判断です。

ただ、その際に、ひとつの視角を自分に設けておいたことも記しておきたいと思います。いわゆるエピステーメ論的な作品分析、いいかえれば、1990年あたりからはじまり人文学研究においてかなり精力的にとりくまれたといっていいかもしれない、ゆるくいえば時代精神の構造としてのエピステーメ(の変容)を下敷きにして、自らが議論の俎上にのせる作品をその(変容の)一角を担うものとして位置づけ解釈していくという方法論を越えるものに、高い評価を与えようという視角です。

以下に記される文章は、そうして用意された原稿に、審査委員会の終了後に加筆し修正をおこなったものです。(とりあげる順番は、著者のアイウエオ順としました。)

まず、河村彩氏の『ロトチェンコとソヴィエト文化の建設』についてです。

この著作は目が眩む量の一次資料に目を配り、多岐にわたる分野でそれぞれに意義深い仕事を残したアレクサンドル・ロトチェンコの思想の変遷の経緯を、短いテンポのよい文章で浮かび上がらせたものです。ロトチェンコが、誕生前夜から一次二次大戦そして戦後へとめまぐるしく変転するソヴィエト連邦の政治、社会、文化を地として己にうけとめつつ、創作にかかわっての自身の思考をいかに変容させていったのかをじつにきめこまやかに描き出します。

メディア研究からの点からは、とりわけ、コンストラクションという概念を練り上げの過程のなかで、絵画の媒体性への反省的思考が立ち上がっていくさま、あるいは、「事物主義」がもたらした物と人とのオルタナティブな関係性の理論的かつ実践的な探求のありさま、さらには、ファクトと写真をめぐるロトチェンコの思考のうねりなどを扱った箇所は、今日のメディア研究にとってもアクチュアリティのある思想史が掘り起こされていると感銘をうけました。

つぎに、熊木淳氏の『アントナン・アルトー 自我の変容』について、です。

アルトーの仕事における自我をめぐる問題を、とりわけ<内面>と<外部>という対立概念に注目することで、その心理学批判、その演劇思想の抽出、さらには、試作という創造行為の水準で深く粘り強く跡づけようとした力作であったということができます。とりわけ、メディア研究者にとっては、第二部における演劇実践における身体をめぐる問いへのアルトーの思考の展開、あるいはまた、第三部の声、文字という表現媒体をめぐるアルトーの探求が、鋭角的に解析されていく箇所は示唆深いものでした。

つづいて、小林剛氏の『アメリカン・リアリズムの系譜』をとりあげます。

リアリズムという芸術思想を縦糸にしながら、19世紀から今日にいたるまでの(とはいえ、おおよそ20紀末までになりますが)、合衆国における芸術実践の流れを読み直すという目論みをもつ仕事です。その野心的な問題設定、大胆な論運び、さらには目配りの聞いた文献資料への言及などがあいまって、アメリカ美術史の刺激的な見取り図を作成することに成功しているものといえます。アーサー・ウェズリー・ダウのフォーマリズムをかたちづくるさまざまな要因を見通しよく整理する第三章の考察にも、また、ソヴィエト連邦における社会的リアリズムの勃興とときをおなじくして生じた合衆国におけるさまざまなリアリズムを腑分けする第五章の考察にも、蒙が啓らかれるところが多いものでした。リーダブルで現代芸術理論を紹介する好著になっていることも、評価されるところでしょう。

メディア研究者の視点からは、とりわけ、一般にいわれるところの写真的リアリズム、すなわち、人為的介入をミニマムに抑えて世界の痕跡を写し取ってしまうというメカニズムを称揚する写真的リアリズムをとりあげる論述が刺激的でした。ヨーロッパ大陸との地政学的な関係が育ててしまった、美的アイデンティティを差別化したいという欲望のなかで、合衆国における写真的リアリズムの際立った浸透を論じる第二章です。これは、それに続く章における通奏低音のようなところでもあり、大きく刺激を受けるものでした。じつのところ、その当の写真的リアリズムを解釈する箇所で作動せられているパースの記号哲学への言及には少なからず少し強引な外挿的なトーンが否めず、これがためか、結語へ向けての論展開がいささか過度に収まりのいい図式に落ち着いてしまっているところが少し物足りないところであったともいえますが。とはいえ、ダイナミックな地政学的な視覚的無意識を炙り出した筆力は敬意に値するといえるでしょう。

武田宙也氏の『フーコーの美学』についでです。

いま現在、日本における思想研究の場にあっては、いわばフーコー学の形成とでも呼べるくらいに土壌がかなり育ってきたようなところがありますが、その成果の一端を感じさせる気鋭の論考とうけとめました。しかも、主たる狙いとしては美学と倫理学の交差する接点という、これまであまり問われることのなかったフーコーの思想の一角を炙り出そうとするもので、丁寧な文献読解と精緻な論構成がみごとな仕事です。フーコーが、初期の論考で問いを起していた「外の思考」をめぐる問いの線と、後期の仕事においてエネルギーが注ぎ込んでいく「生存の美学」をめぐる問いの線を交差させながら辿られていく論述は間違いなく評価に値する力量でしょう。

とりわけ、晩期フーコーにおける「自己への配慮」をめぐる思索を、そのギリシャ哲学読解を丁寧に腑分けし再構成していく部分はメディア研究のまなざしからいってもじつに鮮やかです。「生政治」への抵抗ないし対抗のために、フーコーが組み立てていく「「自己の自己による統治」のテクネー」の読みほどきから、「自己のポイエーシス」が具体化されていくさまを扱ったくだりです。「ヒュポムネーマター」や「書簡」といった「エクリチュール」の方法を考察するところなどは、メディウムをめぐる今日的な問題設定と直結するものでもあります。

続いて、本田晃子氏の『天体建築論』をとりあげます。

正直のところ、いちばん感銘を受けたものであり、学会賞としてわたしが推したい著作であったことを銘記しておきます。膨大な一次資料を渉猟し緻密に組み立てられた論の運びのなかで、レニドフという建築家の仕事の、ロシア・アヴァンギャルドにおける建築実践における多方向へと放射する営為の数々の卓抜な炙り出しには、驚きを禁じ得ませんでした。

社会主義革命という未曾有の経験において、建築の理論化作業と実践の場も例外ではなく、それまでにあった有機的全体性の理念も含めいっさいがっさいがリセットされていく。どころか、新しい都市、新しい人間を創出していくという構想と連結し、概念や思想はいうまでもなく、スタイルや意匠の水準も巻き込んでいっきに流動化されていく波のなかで、建築という名でひとまず括られるだろう営為の群れが、言説のレヴェルで、行政のレヴェルで、どのような交渉や葛藤、対立やすれ違いを生じさせていったのか。その激しい揺動のなか、「紙上建築」という平面においてレニドフが現実とせめぎあったさまがシャープに活写されていきます。

なかでも、そうした流動化を「運動」の場としてとらえたレニドフをはじめとする一群の建築家が、同時代の多彩なメディウムの相貌に対峙していく姿、すなわち、建築雑誌の誌面や、「グリッド」という着想、あるいは航空写真や、運動そのものを産出する映画といった媒体論的思考と媒体介入的実践を活性化する姿を活写していく論述は圧巻でした。副題に「紙上建築」という言葉が折り込まれていますが、それ自体がまさしく建築史ないし建築理論史への媒体論的問題機制を導入するものにほかならないともいえるかもしれません。紙媒体という特異な場で物質化されたレニドフらの建築的構想力の力学が、どのように写真や映画、あるいはそのほかのメディウム上に実装された異なる想像力と切り結んでいったのかというふうに、全体の論構成がよめないわけでもないからです。建築雑誌における写真、なかでも航空写真という往時にあって新しい種類の視覚経験がどのように紙上建築の実践と交差したのか。あるいは、紙上建築のなかでの動態視力がいかなるかたちでグリッド平面によって制御されていったのか。動体視力は映画によってさらなる再編制化を余儀なくされたのか。メディア研究者の目には、それらの問いをめぐる考察は、読む者をひるませるようにさえ映りました。今日のメディアをめぐる理論的あるいは哲学的思考を刺激してやまない著作です。

最後に、福田裕太氏の『シャルル・クロ 詩人にして科学者 詩・蓄音機・色彩写真』をとりあげたいと思います。

ひとまずひとりの人物をめぐるモノグラフであるといってよいものですが、そこで論じられる中味はそうした期待を大胆にそして愉快に裏切ってくれた、まことに多面的な相貌をもつ力作だといえます。19世紀末におけるフランスにおける詩の転換期で詩人として足跡をのこしたシャルル・クロという人物がもつもうひとつの顔、蓄音機と色彩写真の開発に向けて「科学的」な調査研究に深く携わった科学者という顔に真正面から挑み、この不可思議な人物が宿していた厚みのある思考のかたちを炙り出そうとした仕事です。

文学と自然科学というまったく異なる分野で活躍したクロの足跡を扱うにあたり、著者はそうした種別の異なる分野を扱えるだけ自らの学術的素養を鍛えあげており、それだけでも特筆に値するものだといえますが、何よりも、「詩人にして科学者」というクロという人物の二つの相貌をみごとに綜合して論じ得ている点にこそ、その筆力が結晶化しています。そのための論点の緻密な整理は鮮やかです。イデアのように確たる存在の核へのアクセスを断念しつつも、そこから放たれる断片の数々を拾い上げ結晶化させていくという知覚論に、クロの音響分析学、色彩論、試作を貫く共通の思考を見出していく筆は、読む者に間違いなく人文知の快楽を与えるものだといってもいいでしょう。また、文体自体が抑制の利いた、けれどもたおやかな優美さを備えたものでもあり、その点も記しておくべき点でしょう。

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