第10回大会報告 パネル5

パネル5:デジタル・メディア時代における身体と経験|報告:畠山宗明

2015年7月5日(日) 14:00-16:00
早稲田大学戸山キャンパス32号館1階128教室

ポストヒューマン概念の再検討──キャサリン・ヘイルズの議論をもとに
難波純也(東京大学)

映像と情動──インターフェースと身体の時空間
難波阿丹(東京大学)

模倣可能性──AKB48「恋するフォーチュンクッキー」のミュージックビデオの分析
滝浪佑紀(城西国際大学)

【コメンテーター】北野圭介(立命館大学)
【司会】難波阿丹(東京大学)

本パネル「デジタル・メディア時代における身体と経験」は、「身体」の媒介性に注目することで、デジタル時代におけるメディアのパラダイムを模索することをその目的としている。発表では、ポストヒューマンな身体、映像における情動の機能、運動の模倣可能性などの主題が取り上げられ、デジタル映像だけでなく、文学やクラシックな映画研究など様々なアプローチから考察が行われた。

難波純也「ポストヒューマン概念の再検討── キャサリン・ヘイルズの議論をもとに」ではニュー・メディアをめぐる議論の中で大きな影響力を持ったキャサリン・ヘイルズのコンセプト、「ポストヒューマン」の再検討が行われた。ヘイルズの「ポストヒューマン」は、ニューメディア論やデジタル技術論の旗印となると同時に、非物質主義を推し進めるものとして受容され、批判の的ともなった。それに対して本発表では、彼女の主著である『How we became post human?』(1999)における具体的な作品分析に焦点が当てることで、具体的な作品分析の手つきのうちに彼女の真の意図を探るというアプローチが取られた。発表者はヘイルズがグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』などから抽出して見せた「意識・身体のネットワーク化」に着目することで、「ポストヒューマン」を精神/物質の二分法を意識的に見直す契機として改めてとらえ返しつつ、インターネット上での動画投稿を介して生じるネットワーク的な主体性にそうしたポストヒューマンな主体性の表れを見て取った。

ヘイルズの目的は、ポストモダン技術論に入り込んだ近代主義(進歩主義)や男性中心主義に警鐘を鳴らしつつ、可能性の中心としてのポストヒューマンのあり方を探るという点にあったが、一方で、ヘイルズが言ういまひとつの「ポストヒューマン」の輪郭がつかみづらいことから、情報社会の無自覚な礼賛と捉えられがちであった。しかし、ヘイルズがもともと文学研究者であることを考えれば、ポストヒューマンの身体の輪郭は作品分析のまさにその手つきの中に見出されるべきだったろう。その意味で、本発表のアプローチは極めて正当なものであったと言える。ただ、そこで抽出された「意識・身体のネットワーク化」にどれほど新味があるのか、それをポストヒューマンの名のもとに提起しうるのかは、議論の余地があるように思われた。

続く難波阿丹の「映像と情動──インターフェースと身体の時空間」においては、今日的な映像経験における情動の役割が議論された。発表者はまず、今日のメディア環境においてはスクリーンからインターフェースへのパラダイム・シフトが生じつつあることを指摘しながら、デジタル時代の映像との類似がしばしば指摘される初期映画期における情動の役割を整理した。

線状の物語形式を備えていない時期の初期映画は「アトラクションの映画」と呼ばれ、しばしば見世物や遊園地のジェットコースター的な快楽と類比されて来た。初期映画においては、情動の直接的な喚起が優位に立っており、物語映画は、そうした情動性を抑圧する形で確立された。発表者はこのような物語形式確立の歴史的プロセスを、情動のコントロールという観点からとらえ直した。D・W・グリフィスの映画にみられるように、物語映画の確立にあたってはメロドラマ形式が採用され、また「タブロー」という物語から半ば自律したショットがしばしば採用されたが、発表者によればこれらはともに情動をキーワードに読み解くことができる。メロドラマ演劇においてはしばしば女性のヒステリー的な身体が演じられたが、この時身体は情動的なものとして捉えられている。またグリフィスの映画において「タブロー」は俳優による情動表出がクライマックスに達する時点で使用されるが、発表者はこのような「タブロー」は、初期映画期には直接的なものだった情動がコントロールされる契機となったと指摘する。さらに1910年代から20年代にかけて、いわゆる総体としての「ハリウッド映画」が確立されていくが、ここに見られる物語映画の洗練は、まさに「情動の管理」という意味を持っていたと発表者は指摘する。

ではこのような情動のコントロールは「インターフェース」の時代にどのように組織されるのか? 発表者はマクルーハンを引きつつ「スクリーン」も「インターフェース」もともに「皮膚の延長」であると位置づけつつ、映像が投影される矩形のフレームであるスクリーンに対して、ユーザーとコンピューターなどの装置とを媒介する「インターフェース」においては、皮膚的な接触が現実化されるだけでなく、「透明なもの」として接触の作用面が環境全体に拡散されると述べる。情動を喚起する触覚的平面の全面化こそが、インターフェースの時代のメディアの特徴であるとされるのである。

さらに発表者は、このような、物語映画においては基本的には隠蔽されている情動の前景化は、隠蔽記憶の開示に類比可能であることを、トニー・スコットの『デジャヴ』を例に論じた。『デジャヴ』においては、複数の監視衛星の映像を合成することで、任意の場所で生じたすべてのことにカメラを向けることができる(データが膨大なものとなるため巻き戻しや早送りはできない)。ここでは、操作者はイメージを操作することによって、私たちが見ていなかった情報を可視化する。さらにこの作品には情動のコントロールの問題も現れていると発表者は述べる。今日のメディア環境においては、VRのようにインターフェースが完全に全面化しているるわけではなく、私たちは何らかの物質的装置を自由に操るとともにそれに管理する。この作品における映像を自由に操作すると同時により大きなシステムに監視されているという状況は、まさにそのようなメディア環境を示している。発表者はこの作品に、今日のメディア環境における、能動的なものであると同時に受動的なものでもある情動の動的なコントロールを見出して、発表を締めくくった。

かつての情報社会論はその未来予測において、非物質的の増大を強調してきた。その予測は半分は当たったが、近年ではむしろインターフェース的な経験を通じて身体に閉じ込められるという事態も訪れている。こうした点から情報の非物質性と身体を媒介する要素として「情動」を論ずる意味は、極めて大きいといえるだろう。本発表はそうした意味で実際に注目を集めている情動論の見取り図を整理して見せたものだと言えるが、認知科学から精神分析まで幅広い射程を持つ情動論が、一つの論旨に次々と接木されていたような印象もあり、この主題を論じる際に必要となる多大な労力もまた垣間見えるものとなっていた。

最後に滝浪佑紀は「模倣可能性──AKB48「恋するフォーチュンクッキー」のミュージックビデオの分析」において、いくつかのMTV作品を取り上げながら、「アトラクションの映画」に代わる映像のパラダイムを提案しようとした。滝浪はまず構造主義的な記号論から身体論(アトラクションの映画)に至る映画研究の展開を概観しながら、現在の映像研究の課題が「直接性に還元されない身体的経験」にあると述べ、そうした経験のあり方をMTVに探るとした。

滝浪によれば物語的な線状性を持たないMTVを分析するにあたって「アトラクションの映画」は有効であるが、それだけでは不十分である。発表者はこのことを、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」を取り上げつつ説明した。

その際に発表者が援用したのは、近年日本のアニメーションを論じるために生まれた概念的枠組みである。まずトマス・ラマールは日本の「リミテッド・アニメーション」を論じるにあたって、「フル・アニメーション」に比べて劣ったものとみなされがちな「リミテッド・アニメーション」をそれ自体運動と静止が総合されたものとして日本のアニメーション表現の可能性の中心に据えた。マーク・スタインバーグはさらに、その「運動的静止(dynamic immobility)」を「メディアミックス」と接続した。日本のアニメ表現に現れる動的なポーズはキャラクターを前景化させ、それによってメディアミックスを可能にしているとスタインバーグは指摘する。滝浪はこれを動画経験における模倣の開始というよりミクロなプロセスに置き直すことで、アトラクション以降のパラダイムを見出そうとした。

滝浪によれば、「恋するフォーチュンクッキー」のMTVの特徴として、その模倣可能性が挙げられる。この曲は、多くの模倣動画を作り出した。それが可能になっているのは、このMTVにおいては、比較的模倣が容易な身ぶりが反復的に使用されていることにある。しかしその容易さは、決して身ぶりが単純であることから来ているのではない。その反復は映像内においても厳密なものとして行われているわけではなく、大体似ている、あるいは差異を含む形で繰り返されている。発表者は、このような「大雑把な連続(rough serialization)」こそが、運動的静止をはらんだ身ぶりを生み出しているとした。逆に言えば、運動的静止をはらんだ身ぶりを通じて、映像上の身ぶりは観客の運動へと越境していくのである。

本発表は、アトラクションの映画以降のパラダイムを模索するにあたって日本のアニメーションを論じるための概念を援用したという点でオリジナルな発表であったというだけでなく、実際に具体的な概念提起を行ったという意味で映像研究全体を前進させるような意義を持った発表であったと言える。しかし、コンセプトの厳密な導出を心がけることで、背景説明に多くの時間を割かれてしまい、例えばこの感情移入レベルの越境性がメディアミックスを含めた文化産業全体にどのように差し戻されるのか、といった興味深い論点が今後の課題になったのが惜しまれる点であった。

このように個々の発表においては、それぞれ異なったディシプリンからアプローチが行われ、今日的なメディア環境が可能にする主題の広がりを感じさせるものとなっていた。現在進行形である事態を論じるにあたって生じる不確定性にそれぞれの発表が直面していたのも、主題のアクチュアリティの表れであるといえるだろう。まさにそうした揺らぎから、それぞれの主題が生産的に深められていくであろうことは疑いのないところである。

畠山宗明(聖学院大学)

【パネル概要】

今日加速する資本主義経済に伴い情報技術も様々に発展を遂げ、人間像やコミュニケーション様式も大幅に書き換えられている。本パネルでは、デジタル・メディア時代における「身体」の媒介性に注目し、メディア論のパラダイムを提起する。現代の情報環境では、メディアの媒介作用それ自体が、伝達する情報の内容を書き換える可能性をもつ。そのような環境下で、メディアがもつ「アトラクション」(ガニング)といった直接的な作用に還元されない、身体における経験の次元をどのように捉えるかが、デジタル・メディア時代の人間像やコミュニケーションを考察する場合に避けられない問いになっている。

本パネルでは第一の発表(難波純)で、キャサリン・ヘイルズの「ポストヒューマン」概念をとりあげ、「物質(身体)」と「情報」という二項対立を踏まえながら、今日のネットワーク上でのアイデンティティ構築について議論を進める。第二の発表(難波阿)では、「情動(affect)」理論の系譜を追いつつ、近代以降の映像メディア環境における身体経験について「距離」と「時間」の二点から議論を進める。第三の発表(滝浪)では、ミュージックビデオのアトラクション性には還元されない諸相を、「模倣可能性」ならびに「ポーズ」という観点から考察する。以上のように、デジタル・メディア時代における「身体」と「経験」の諸相を三点から提示していく。(パネル構成:難波阿丹)

【発表概要】

ポストヒューマン概念の再検討──キャサリン・ヘイルズの議論をもとに
難波純也(東京大学)

米国の文学批評家キャサリン・ヘイルズは How We Became Posthuman(1999)のなかで、それまでのサイバネティックスの発展の歴史を整理し、文学作品の分析と照らし合わせながら、「物質(身体)」と「情報」の二元論をより浮かび上がらせる新しい人間観としての「ポストヒューマン」の概念を提示した。その後、この概念は情報を特権化し、人間の身体の物質性を安易に軽視するものとして理解され、批判されてきた。とはいえ、彼女のこの著作を読み解くと、その理解はこの概念の一つの側面にすぎず、同時に、批判のなかでは文学分析について、つまり、彼女がポストヒューマンとして捉える具体的な様相については触れられていないのである。

本発表では、ヘイルズの提示したポストヒューマンという概念を、この概念を提示する際に用いた文学作品──グレック・ベア Blood Music (1985)など——の分析に注視しながら、その後の彼女の著作を視野に入れて再検討を行い、その詳細な内実と意義を今一度見直す。彼女はこの概念を、生命と機械・情報を結びつけ、人間の身体に含まれる媒介性を軽視する傾向をもつものの、同時に改めてその性質の重要性を考える機会をもたらすものとして捉えていたのである。一方でこの検討を踏まえ、これからのこの概念の展望として、昨今の若者たちによるネット上での自己表現の様相を分析する際に有効であることを提起する。

映像と情動──インターフェースと身体の時空間
難波阿丹(東京大学)

本発表では、スティーブン・シャヴィロ『映画的身体』およびマーク・ハンセンらニューメディア論の議論を手がかりとしながら、映像視聴者の「身体」において潜在的なレベルに作動する「情動(affect)」に関して、「インターフェース」との距離(空間)と時間という二つのパラメーターを軸に、歴史的な考察を深めていく。近年メディア文化研究では、知覚・認知システムとして映画をモデルとした投射(プロジェクト)構造の失効が指摘されている。これは同時に、近代以降、情報を制御・調整するメディアの媒介性が、触知しえないほど透明化していく過程とも考えられる。

本発表では、第一に、リュミエール『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895)、エジソンのキネトスコープによる個人視聴の映像実践、古典映画『国民の創生』(1915)に表出されたモノクロフィルムにおける、観者の「情動」を喚起する効果を具体例として取り上げ、初期および古典映画を起点に、映画の表象システムにおけるスクリーンと観者の身体との相関を距離と時間の二点から考察する。第二に、近年のPCおよびモバイル端末に代表されるメディアでの映像視聴環境を題材に、より観者の身体に漸近したインターフェースにおける「情動」作用のリアリティについて提示する。そのさい、観者の身体における経験の直接性が顕在化し、距離と時間の消失が仮構されていくメカニズムについて議論したい。

模倣可能性──AKB48「恋するフォーチュンクッキー」のミュージックビデオの分析
滝浪佑紀(城西国際大学)

映画と同様、ミュージックビデオ(以下MV)も時間的・空間的に細分化されたショットから構成されており、この点で、映画の形式主義的分析手法は有用だろう。映画と比較した時、MVのスタイル的特徴は、(1)ストーリーの首尾一貫性よりも新奇な視覚的効果を狙った演出・編集上の工夫、(2)カメラを凝視し、観者の注意を乞う演者の身振りという二点にある。MVは窃視的物語映画というより、観者の身体に直接的に働きかける露出的「アトラクションの映画」(トム・ガニング)の原理に則っていると考えることができる。

しかしながら本発表では、近年大きなブームを見たAKB48「恋するフォーチュンクッキー」のMVは、こうしたMV一般の特徴を指摘するだけでは十分でないと主張する。同MVの特徴は、AKB48のメンバーや他の演者(高校生など)がカメラを凝視しながら、比較的単純な振り付けを繰り返す点にある。こうした側面はMVの特徴に適っていると言えるが、まさにこの特徴のために、同MVは多くの企業や学校によって模倣されたのである。本発表では、こうした「恋するフォーチュンクッキー」MVの構造を、予め模倣されやすい条件としての「模倣可能性imitatability」を備えたプロトコルという観点から考えるとともに、マーク・スタインバーグの「リミテッド・アニメーション」論を参照しながら、「アトラクションの映画」の原理には還元できない同MVの側面を、停止性を含意した「ポーズ」という観点から分析する。