研究ノート 宇佐美達朗

シモンドンのいわゆる技術論について
宇佐美達朗

ジルベール・シモンドン(Gilbert Simondon, 1924-1989)は個体化論と技術論の哲学者であると言われる。こうした形容は1958年にジャン・イポリットとジョルジュ・カンギレムの指導のもと提出された博士論文の主論文と副論文、すなわち『形態と情報の概念に照らした個体化』および『技術的対象の存在様態について』(以下それぞれ『個体化論』『技術的対象論』とする)に由来するものである。歿後に編纂された講義録を除けばシモンドンの「著作」はこれら二著に尽きる(ただし主論文はかつて二分割され『個体とその物理—生物学的な発生』(1964)と『精神的・集団的な個体化』(1989)として出版されていた)のだから、個体化論や技術論といった形容によってシモンドン哲学の大枠が指し示されているのは間違いない。とはいえそれは大枠であって、実際に二著を繙くならこうした形容のみでは不充分であるのがわかるだろう。シモンドン哲学を形容するものとして、より精細な概念が必要なのだ。

では、いかなる概念によってシモンドン哲学は形容されうるか。たとえば『個体化論』については、個体という存在をそれ自体ひとつの関係と捉える「関係の実在論」が挙げられるだろう。シモンドンにあって関係(relation)は、二項のあいだで事後的に成立するたんなる連関(rapport)から区別され、それ自体がいわばひとつの「もの」として存在の身分を有するとみなされる。このような存在論的な見方は認識論的な価値も持つとされ、そこには類比(analogie)や範例(paradigme)がもつ力に対するシモンドンの確信が認められる。異なる領域での個体化を扱うシモンドン哲学には「類比の哲学」の側面があるのだ。ただしここでは『個体化論』ではなく、シモンドンのいわゆる技術論と呼ばれる著作『技術的対象論』を取り上げることにしたい。つまり「関係の実在論」や「類比の哲学」のように、技術論についてもより精細な形容を可能とする概念を提示することにしたい。その概念とは教養(culture)である。

すでに述べたように『技術的対象論』は博士論文の副論文として書かれた。これは『技術的対象論』が『個体化論』を補完するということだけでなく、両者が同時に生み出されたということをも意味している。つまり『技術的対象論』はたんに『個体化論』で獲得された図式やモデルを技術の領域へ応用したものではないということだ。両者にはそれぞれ別の役割が与えられているように思われる。大雑把に言えば、『個体化論』が自然の探究であるとすれば、『技術的対象論』は人間の探究、一種の人間学である。そして博士論文の提出以後、シモンドンが特に取り組んだように思われるのはこの人間学のさらなる展開であった。グザヴィエ・ギュシェ『技術論的人間学のために』(2010)や、あるいはジャン=ユーグ・バルテレミー『シモンドンあるいは発生的百科全書主義』(2008)の試みは、こうした線に沿うものであると言えるだろう。

『技術的対象論』において人間は、(技術的)対象によって媒介されることで世界あるいは自然とかかわり合うことのできる主体として位置づけられている。この「主体—対象—世界」という三つの実在からなる図式のなかで技術が果たす役割を考察することが、とりわけ『技術的対象論』第三部「技術性の本質」での目標となる。『個体化論』で世界=自然が論じられたのだとすれば、『技術的対象論』では(技術的)対象について考察することで、世界のうちでの主体の在り方を論じることが目指されていると言えるだろう。本稿で取り上げたいのもこの第三部であるが、とはいえまずはそれに先立つ第一部「技術的対象の発生と進化」および第二部「人間と技術的対象」を概観しておくことにしたい。シモンドンは技術的対象について三段階の意識化をおこなう必要を唱えているが、この三段階は第一部から第三部までの行き方に対応しているからだ。

第一部ではエンジンや真空管、タービンなどを具体例に技術的対象そのものが考察される。ただし技術的対象そのものといっても、なにか不可分な物体が想定されているわけではない。技術的対象は要素(élément)、個体(individu)、集合(ensemble)という三つの水準で捉えられねばならないのである。つまり考察はこれら三つの次元でおこなわれるのであり、たとえばシモンドンは要素の水準で技術的対象を研究するものを一般器官学(organologie générale)、個体の水準で研究するものを機械学(mécanologie)と呼んでいる。このとき技術的対象は、器官学という語の使用からも窺われるように、生物と類比的なものとして捉えられている(ここに生命論的技術論を構想したカンギレムからの影響を見てとることもできるだろう)。『個体化論』で生命体がその環境と連結したものとされたように、さまざまな要素=器官からなる個体としての技術的対象はその環境と連結したものとみなされねばならない。個体がそこに位置づけられるネットワークまでもが考察対象となるのだ。

しかし機械(つまり個体としての技術的対象)は生物ではない。機械、あるいは機械のネットワークが作動するには、そこに人間が介入しなければならない。機械が自律した生命体のように意思や欲望をもっているとみなすことで、機械は人間を脅かすものであるとの考えが産み出されてしまう。シモンドンによれば人間と技術的対象の関係とは、あくまで生物と非生物の連結として把握されねばならない。ただしこのとき人間は、あたかも奴隷に対するがごとく機械に技術的対象に働きかけるのではなく、オーケストラの指揮者のように、あるいは通訳者のように、機械のあいだに介入し、機械どうしを連結させ、組織することを役割とする。両者はいわば協力関係にあるものとみなされる。このように人間と技術的対象の関係を個体と集合の水準で考察することが『技術的対象論』第二部の目的となる。

ところで、百科全書主義が論じられるのはこの第二部においてである。シモンドンによって提唱された新たな技術論とも言える発生的百科全書主義は、続く第三部ではなく第二部に現れるのだ。第三部で扱われるのは思考のさまざまな展開・分岐であり、第三部は第一部および第二部に比べ技術論としての性格が希薄であるかに見える。極論すれば『技術的対象論』は技術論としては第二部までで完結しており、第三部は蛇足であるとさえ言えるかもしれない。煩瑣にすら見える思考の分類(※1)をシモンドンはなぜ第三部でおこなわねばならなかったのか。その理由は『技術的対象論』の大きな目的に組み込まれ、著作を通して幾度となく言及される「教養」にあるように思われる。

『技術的対象論』の「序論」、あるいはシモンドン自身の手による「趣意書」によれば、この著作の目的は、技術的対象についての適切な認識を教養へ導入することで、教養がかつて持っていた一般的な性格をこれに与えなおす、というものである。自由学芸(artes liberales)と熟練的技芸(artes mechanicae)の対比を用いるなら、熟練的技芸のうちに追いやられ自由学芸と対立するものとみなされてきた技術的対象を、自由学芸のうちに数え入れるということが、あるいはより正確に言えば、こうした区別の根拠となっているものを問いなおすことでこの区別そのものを無効にするということが目指されていると言えるだろう(シモンドンは「結論」末尾で σχολή こそそのような根拠であるとし、さらにはこのスコレーによる行動と観想の対立構造がベルクソンのうちに依然として見いだされるとの批判をおこなっている)。つまり、たんに技術に関する範囲で考察をおこなうだけでは不充分であって、技術的思考をその他の思考との関係のうちで、あるいは人間の知的な営為全体のうちで考察する必要があったのだ。

当然ながら、こうした考察は『技術的対象論』で究められるようなものではなかった。シモンドンがそこからさまざまな思索をおこなったことは『技術について』(2014)にまとめられた講義録や論考などから窺い知ることができる。技術的対象の社会心理学の試みや技術美学(techno-esthétique)の構想など、それらに共通して見いだされるのは領域横断的な、諸学総合的な視点である。シモンドンの技術論の本領は、あるいはすくなくともその可能性は、いわゆる技術論の枠を越え出たところに見いだされねばならない。

宇佐美 達朗(京都大学)

[脚注]

※1 ここでごく簡単にその構図を示しておきたい。図と地への分岐とその収斂が基本的な図式となるが、この収斂は二段階でおこなわれる。魔術的統一から分岐した図としての技術的思考と地としての宗教的思考は、まず美的思考によって収斂が不完全におこなわれ、第二段階において、それぞれ理論的・実践的な思考へと分岐したうえで、哲学的思考によって収斂が完全におこなわれるとされる。美的思考と哲学的思考の相違、つまり第一段階と第二段階の収斂の相違は、それがおこなわれるのが自然と(au niveau spontané)であるか、熟慮のうえで(au niveau réfléchi)であるかの違いに、あるいは表現(expression)のみを伴うのか、判断(jugement)を伴いうるかの違いにある。なお、第一段階において技術的・宗教的という対立は(主体にとっての)自然的世界の練り上げと本質的に結びついており、第二段階において人間的世界の練り上げに転じるとされる。

Gilbert Simondon, L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information, Grenoble, Éditions Jérôme Millon, 2013 [1re édition 2005].

Gilbert Simondon, L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information, Grenoble, Éditions Jérôme Millon, 2013 [1re édition 2005].
第二版では第一部「物理的な個体化」と第二部「生命ある存在の個体化」という博士論文の当初の構成となった。

Gilbert Simondon, Du mode d’existence des objets techniques, Paris, Aubier, Nouvelle édition revue et corrigée, 2012.

Gilbert Simondon, Du mode d’existence des objets techniques, Paris, Aubier, Nouvelle édition revue et corrigée, 2012.
なお新版にはシモンドン自身の手による「趣意書 Prospectus」が収録されている(pp. 361–363)。

Xavier Guchet, Pour un humanisme technologique. Culture, technique et société dans la philosophie de Gilbert Simondon, Paris, PUF, 2010.

Xavier Guchet, Pour un humanisme technologique. Culture, technique et société dans la philosophie de Gilbert Simondon, Paris, PUF, 2010.

Xavier Guchet, Pour un humanisme technologique. Culture, technique et société dans la philosophie de Gilbert Simondon, Paris, PUF, 2010.

Jean-Hugues Barthélémy, Simondon ou l’encyclopédisme génétique, Paris, PUF, 2008.

Gilbert Simondon, Sur la technique, Paris, PUF, 2014.

Gilbert Simondon, Sur la technique, Paris, PUF, 2014.