トピックス 1

第6回表象文化論学会賞受賞式

(2)選考委員コメント

石光泰夫

選考委員会では、今回の候補作のうち、小林剛『アメリカン・リアリズムの系譜―トマス・エイキンズからハイパーリアリズムまで』が他からは抜きんでた、鮮やかな表象文化論の実践として、これをまず第一に学会賞に推したが、多数意見とはならず、奨励賞のほうに回ることになった。表紙のカヴァー・デザインをはじめとして、小粒ながら全身が表象の戯れという感じの書物であり、アメリカン・リアリズムがその歴史のなかで、ピクチャレスクとしての写真にいきづまりの打開を見いだそうとしたときに、フェノロサを通じて、日本画の雄渾な線のみによる風景描写に、西洋近代にはみられない特異なリアリズムを発見して、これを既製のリアリズムを批判する梃子にしようとしたと指摘する箇所など、ちょっとぞくぞくさせられた。作品分析が足りないし、ハイパーリアリズムとの接続が尻切れトンボになっているなど、物足りないところはあるが、これのみが唯一果敢な表象文化論たり得ていた。

高い評価を得た本田晃子『天体建築論―レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(学会賞を受賞)は、私には、河村彩『ロトチェンコとソビエト文化の建設』と横一線上にあると思われ、どちらも大変な労作であり、着想の面白さ、文献の幅広い渉猟など間然するところはなくてともに立派な学術論文であるが、表象文化論的感興にはいささか乏しいといわざるをえない。たとえば、どちらの論文でもロシア・アヴァンギャルドで構成主義といえばかならず出てくるグリッドという「かたち」の道具立てに言及されているが、これが新しい社会主義の創設だとか、徹底した功利主義だとかいった文脈で使われれば、どのように薄っぺらいイデオロギーに縮減されてしまうかということにたいする複眼的目配りがどちらにもなく、その結果、既視感の強いロシア・アヴァンギャルド系の言説に無批判に収まってしまっている。今更ではあるが、ある形象なり、言説なりを表象ととらえ、その表象行為の可能性をできるだけ多角的に剔抉し、そのなかからたった一つがrepresentativeなものとして前面に迫りあがってくるときにはどういうイデオロギーが働いているのか、あるいは複数の可能性が生かされているとしたらどういう表象の戯れがそこでは仕掛けられているのかといったことを、クリティカルに差異化する視点を確保することが表象文化論にとってはいつも急務なのだが、この視座がたいていの場合に欠落しているから、力作ではあっても、どうしても「生涯と作品」の、時系列に沿ったスタティックな記述におわってしまいかねないのである(その対極の真に生き生きとした表象文化論的歴史記述とはどういうものかということを根底から知りたければ、七百頁のすべてにわたって、そのつどの緻密な表象文化論をスパイラルに連ねたという趣の松浦寿輝『明治の表象空間』を繙くにしくはない)。

武田宙也『フーコーの美学―生と芸術のあいだで』は「外」の哲学とポエジーの、身体を介した関係について、福田裕大『シャルル・クロ―詩人にして科学者』はポエジーと科学のシステム思考との関係について、ともに大きな期待を抱かせる問題設定から出発してはいるが、フーコーやシャルル・クロの言説の脱構築がたとえ萌芽的にも試みられてはいないから、どうしても彼らの言説を後追い的に確認するにとどまらざるを得ない。熊木淳『アントナン・アルトー―自我の変容〈思考の不可能性〉から〈詩への反抗〉へ』はそこにきわめて個人的なバイアスがかって、さなきだに難解なアルトーの言説の後追い自体が、私にはいよいよ難解なものになってしまった。

以上の、私個人の選評は、まるで表象文化論を笠に着た小言のようになってしまったが、一応、表象文化論を頭にいただいた賞の選考なので諒としていただきたい。選考委員会の総意で行われた受賞作の最終決定は、もちろんこれを全面的に支持するものであることを、さいごにお断りしておく。

貝澤哉

選考委員となって二年目の今年も、建築、美術、文学、メディア史、思想、演劇等さまざまな領域・分野の労作が候補として推薦され、一読者としてじつに多くの知的刺激を受けたが、それだけに率直に言って、これらの著作を順位づけ、賞を与えるという作業はきわめて悩ましいものであった。ただし個人的には、前回に比べると候補作のなかに傑出した印象を与えるものがなかったように思えたことも、その一因なのかもしれない。博士論文を著書として刊行したものがほとんどだが、専門研究者だけでなく、一般読者も手に取るはずの市販された一冊の書物として見たとき、学術論文特有の一種防御的にも見える過度な生硬さや手堅さ、あまりにもジャーゴンに埋没しすぎた文体、図式化すれすれの明晰さなどが、読むことの知的スリルを読者から奪ってしまっているのではないか。

その意味で、本田晃子氏の『天体建築論―レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』は、けっして派手ではないが、ロシア・アヴァンギャルド建築を「アンビルト」、「ペーパーアーキテクチャー」というこれまでにない視点から切り取るその新鮮な切り口自体の面白さと、アカデミックな韜晦や紋切型のジャーゴンをしなやかにすり抜ける柔軟で無駄のない文体で、候補作のなかでは印象のよいものであった。ただ欲を言えば、レオニドフの建築構想が持ついわばユートピア的な反重力性や軽さ、通信メディアと建築のコラボレーションによる離散性を強調し、それをスターリン主義的な中央化・集権化に対置する見立ては、ややロシア・アヴァンギャルドについての旧来の図式にはまりすぎてはいないだろうか。スターリン時代の権力が集権的なものであったという考え方は、今日必ずしも多くの専門家に共有されているものではない。むしろ当時のソ連の権力構造自体が現実には離散的なものとして機能していたと見ることもできるのである。

小林剛氏の『アメリカン・リアリズムの系譜―トマス・エイキンズからハイパーリアリズムまで』は、写真メディアや美術教育、冷戦構造についての政治的な言説配置とのかかわりのなかでアメリカの近現代美術における「リアリズム」の概念をとらえなおしたものだが、これまでの常識や美術史の言説を覆す大胆な発想、隠れた資料、事実の発掘など、切り口の新鮮さや読者へアピールのという点では、候補作のなかでは好感が持てるものだった。それは著者自身が冒頭に書いているように、ヴァーチャルな「リアリティ」をよりリアルに感じている著者の教え子たち=現代日本の若者たちが潜在的な読者として想定されているからだろう。ただ、私のごく個人的な印象では、この本が扱うのがどちらかと言えばイメージそのものではなく、むしろイメージについての言説に偏っていることが少し残念に思える。アメリカの「リアリズム」のあり方を、写真的なインデクス的関係において見出されたナマの自然として論じる個所も、エイキンズの絵画作品の短い読み取りを含んではいるものの、結局は「アメリカ的なもの」にかんする地域研究的な言説に回収されてしまう危惧を感じるし、美術史の言説を批判的に読解する長い章においても、イメージそのものの読み解きはなされない。もちろんそもそも言説批判を狙いとするこの本にとってそれが無い物ねだりなのはわかっている。しかし「リアリズム」についてのこの本の視点や問題提起が興味深く新鮮なものだからこそ、よりリアルな=即物的なイメージそのものに鋭く肉薄する読み解きをつい期待したくなってしまうのである。

1234