研究ノート 渡部宏樹

角川サマー・プログラム「Mediated World: Sociality, Publicness, and Celebrity」参加記録
渡部宏樹

2015年7月23日から8月5日にかけて東京大学本郷キャンパスで角川文化振興財団による寄付金で運営されるサマー・プログラム「Mediated World: Sociality, Publicness, and Celebrity」が開催された。筆者はこのサマー・プログラムにティーチング・アシスタントとして参加し、プログラムの全体像をある程度見渡す機会を得た。いわゆる一連の「クール・ジャパン政策」についての議論や日本の漫画やアニメについての国際的な関心の高まり(あるいはそのような思い込み)がある中で、このような新しい試みについて記録し公開することの意義に異を挟む者はないだろう。本稿はティーチング・アシスタントとしての立場からこのサマー・プログラムの内容と所感を報告するものである。

サマー・プログラムの概要

特設サイト上のアーカイブを見る限り、初年度である2014年のサマー・プログラムは「メディア・ミックス」をテーマに「(1)理論のための講義、(2)インタビュー講義および実践的ワークショップ、(3)アーカイブ調査」の三本柱で構成されていた。コーディネーターである大塚英志とマーク・スタインバーグの学問的関心を反映して、コンテンツ製作の現場の理解とアーカイブ資料の調査を重視するプログラムの構成であった。もちろん「理論のための講義」の部分で例えば人類学的手法をとるイアン・コンドリーが登壇し、理論的射程の広がりへの目配りはあったようだが、力点が置かれたのはコンテンツを実際に製作してきた現場の人間と対話し歴史資料を発掘し、それらに基づいた議論を行うことにあったようである。

一方で2015年は、コンテンツの製作者や過去の資料よりも、現在の日本のポップ・カルチャーにおける送り手と受け手の関係性に力点を置き、スター研究、ファン研究、オーディエンス研究の方向に舵を切っている。東京大学大学院情報学環・学際情報学府准教授でジェンダーとメディアを専門とするジェイソン・カーリン准教授と秋葉原ツアーの主催者としても名を知られ東京大学で博士号を取得し現在デューク大学で二つ目の博士号を目指しているパトリック・W・ガルブレイスの二人がプログラムの実際上の決定にかかわっており、この2015年のプログラムの方向性は彼ら二人の学術的関心を反映していると考えてよい。彼らが共同編集しているIdols and Celebrities in Japanese Media Culture (Palgrave Macmillan, 2012))の内容を見れば、2015年のプログラムとの類似点が多いことがわかるだろう。彼らは共編著と2015年のプログラムで、映画スターからテレビのタレントやアイドル、さらにはソーシャル・メディアを使ってファンとの交流を行う地下アイドルまでをも「セレブリティー」という概念で連続的に捉え直し、「セレブリティー」とその受け手側が「メディアに媒介された世界(Mediated World)」の中でどのような社会的関係性を結ぶのか、さらにはそのような社会的関係性が前提とされる中で個人がどのように自己を描き出すのか、を中心的なテーマにしたのである。このように拡大的に「セレブリティー」という概念を定義することで、いかに映画産業がマーケティングのためにスターを構築したかという映画研究における議論や、カルチュラル・スタディーズにおけるオーディエンスのテクストに対する能動性の議論といったインターネット以前の学術的議論を、現代のメディア文化についての議論に接続することに成功しているといえる。

参加学生とプログラムのフォーマット

サマー・プログラムはおよそ30人の参加学生を対象にすべて英語で行われた。参加者のうちおよそ20名は国外大学からの参加者で、北米からの参加者が5名程度と多数を占めたが、東アジア、東南アジア、南アメリカ、西ヨーロッパ等からまんべんなく参加者を集めていた。中近東やアフリカからの参加者はいなかった。参加者の多くは自身が日本のポップ・カルチャーのファンであることが多いようなので、この地域的偏りはある程度日本のポップ・カルチャーの世界各地での浸透度合いと相関関係があるように見える。国外からの参加者の多くは大学院博士課程か修士課程の学生であったが、学部学生、学部を卒業したあと他の教育機関に移行する前の状態の学生などもいた。国外大学からの参加学生の日本語能力は概して高く、とくに博士課程に在籍するような学生たちはすでに数年間の日本滞在経験があり実際に彼ら自身の趣味と研究のために日本語を運用しているようであった。東京大学からおよそ10名が参加し、その半数は留学生であった。

プログラムは基本的に平日の午前中に学生たちが自分の興味関心や研究テーマについて発表を行い、午後は2人の講師陣が90分ごとのレクチャーあるいはワークショップを行うという形式である。学生たちの発表は、やはり200人を超える応募者の中から選ばれただけあって、プログラムのテーマを明確に反映したものが多いように思われた。もちろんいわゆる漫画やアニメのテクスト分析的なアプローチを選択する参加者もいたが、例えば秋葉原のアニメ・ソングを専門としたクラブのDJを研究しかつ彼自身もDJとして活動している参加者や、単にメイド・カフェではなくそれとの対比として女装カフェにおけるジェンダー戦略を浮き彫りにしようとする参加者など、エスノグラフィー的なアプローチを用いる参加者が特徴的だった。

講義の内容

午後の講義では、これらの参加者に対して日本の大学に所属する研究者と英語圏の大学で活躍している研究者を招聘して、それぞれの専門性から理論的にあるいは具体例をあげながら講義が行われた。一般的な傾向として、日本の研究者はかなり意識的に具体的な事例の紹介に努めていたように見える。例えば、1910年代から20年代にかけて日本映画産業の勃興期における女方から女優へのシフトとスターの誕生について論じた藤木秀明や、娯楽雑誌や週刊誌をもとに石原裕次郎のファンダムについて議論したマイケル・レイン、そしてリキ(力道山)とミッチー(正田美智子)をテレビ時代の重要な国民的アイドルと位置づけ彼らの間のジェンダー役割の違いとテレビの普及について論じた吉見俊哉の議論などは、映画やテレビの時代における日本の「セレブリティー」の姿を紹介し、プログラムの内容に歴史的厚みを与えた。その上で、「ジャニーズ・アイドルを消費する女性の欲望」(長池一美)、「ホスト・クラブにおける情動の労働」(竹山明子)、「2ちゃんねるにおける言語使用とコミュニティー」(西村由起子)、「ビジュアル系ファンダムの変容」(井上貴子)といったより現代的なトピックが参加者に紹介された。

国外から招聘された講師陣は必ずしも日本研究者ではなく、例えば、P・デイヴィット・マーシャルはメディア化された公共文化におけるペルソナについて論じ、マイク・フェザーストンは現代の消費文化における身体イメージを議論し、マット・ヒルズはファンによるコンベンションの再検討を試みた。ネット・アイドルの労働をジェンダー論の観点から分析したガブリエラ・ルカクスを除いて日本の事例にはあまり言及されず、これはこのサマー・プログラムが日本のポップ・カルチャーやメディア文化の個々の事例を特殊事例として記述するのではなく、より普遍的な議論と対話させようという志向を持っていることをよく反映していた。このことは特にコーディネーターであるガルブレイスの講義に現れていた。彼はAKB48におけるアイドルとファンの労働について紹介する中で、観客、視聴者、ファンについての研究史をネオマルクス主義的、フランクフルト学派的な文化産業と資本主義社会における市民的自由の議論に接続し、アイドルとファンの間に生まれる情動の経済学のダイナミズムを多面的に理解することの重要性を強調した。

フィールド・ワーク、秋葉原&仮面女子ツアー

講義に加えて、何人かの講師がそれぞれの得意分野を生かしてフィールド・ワークを企画し、原宿のジャニーズ・ショップの見学、コスプレ・イベントの見学、地下アイドルのパフォーマンス会場でのインタビューなどが行われた。声優の「中の人」について講義を行ったプログラムの野澤俊介特任准教授は、様々なメディアに媒介されたファンの挙動と対比するための参照点を確保するという意味もあって吉本興業のお笑いイベントのツアーを企画した。

これらのツアーは選択制で希望者が参加できるのだが、ガルブレイスの秋葉原ツアーはプログラムの必須科目に組み込まれている。秋葉原のAKB48カフェに集合し、秋葉原の一帯を2時間にわたって散策するのだが、単にアニメや漫画やアイドルに関連した商品をエキゾチックな眼差しで観光することが目的ではない。この街が戦後の闇市の電気街から、パソコンの街、オタクの街になり、現在どのように公的な文化の領域に組み込まれつつあるか、その歴史的重層性がこのツアーの中心的なテーマであり、例えば、日本動画協会と企業コンソーシアムが秋葉原UDX内に運営している「東京アニメセンター」や『ラブライブ』のイラストがあしらわれた絵馬が奉納されている神田明神などが、漫画やアニメというものがスティグマを押されたものから経済的あるいは文化外交的な可能性として発見され日本の公式な文化として制度化された過程を体現していた。

秋葉原ツアーに続いて行われた仮面女子という地下アイドルのイベント訪問は、このサマー・プログラムで論じられたあらゆるテーマと関わるものであった。仮面女子はアリス十番、スチーム・ガールズ、アーマー・ガールズという小グループからなるアイドル・ユニットで、それぞれの小グループはアイス・ホッケー用のマスク、スチーム・パンク風の衣装とガス・マスク、西洋風の鎧を模した衣装に鉄仮面風のマスクをまとってパフォーマンスを行う。秋葉原の常設劇場P .A .R .M .S(パームス)小劇場で毎日パフォーマンスを行っており、サマー・プログラム参加者は一般の観客としてこのパフォーマンスを見に来た形になっている。

私も含めたプログラム参加者が注目したのは来場しているファンの活動であった。このシアターの入場チケットは一枚2500円で、観客たちはさらに500円のドリンク・チケットを購入することを求められる。2500円のチケットと引き換えに、来場者は小さなコインを渡される。会場内にはそれぞれのアイドルたちのための投票箱が置かれており、来場者は好きなメンバーの箱にこのコインを入れることで投票することができる。仮面女子メンバーがインタビューに答えているオンラインの記事によれば、このコイン一枚が100円程度の金額としてメンバーにバックされ完全歩合制の給料となっている。追加のコインを買うことも可能で、我々が訪問した際は一枚2000円で購入することができた。シアターではアリス十番、スチーム・ガールズ、アーマー・ガールズが時には個別に、時には全グループで一体となってダンスと歌を中心としたパフォーマンスを行う。興味深い点はパフォーマンスをするグループが入れ替わるごとに、来場者たちもそれに合わせて移動することである。つまり、来場者たちはそれぞれ応援する個人やグループが決まっており、自分が応援している個人やグループがパフォーマンスを開始する際に会場内のステージの前に移動し、仮面女子のパフォーマンスに合わせた彼ら自身のパフォーマンス(「オタ芸」)を披露するのである。全てのパフォーマンスが終了したあとは、仮面女子のメンバーとの握手会、写真撮影会が開催され、来場者の多くが長い列を作っていた。もちろん握手や写真撮影をするためのチケットも会場で販売されている。

仮面女子とファンたちの「愛の労働」

ガルブレイスがAKB48のパフォーマーとファンたちの活動を描写するときに使った「愛の労働」という言葉は、仮面女子のパフォーマーたちの労働と仮面女子を応援するファンたちの労働のあり方にも適用できる。なるほど、仮面女子のパフォーマーたちは具体的な事物を生産するための労働をするわけではない。彼女たちの労働は愛されるために/愛らしくあるための労働である。ファンたちは彼女たちを応援するために足しげく劇場に通い、彼女たちのパフォーマンスを盛り上げるために「オタ芸」という労働をする。彼らがその労働の対価として受け取るものは物質的なものでも経済的なものでもなく、なにか生きる喜びのような情動の領域に属するものである。竹山がホスト・クラブを論じるときに情動の経済圏に注目したように、仮面女子とファンの間には情動の経済圏が発生している。実際のところ彼らの内面は計り知れないが、率直に言って彼らはみなとても生き生きしているように見えた。だが、同時にルカクスやガルブレイスが問題化したように、この情動の経済圏の中に搾取はないのかというのはやはり問われるべき問題であろう。しかしながら、日本のポップ・カルチャーやメディア文化を考えるときにそれらを単純にファンの能動的な活動の成果として寿ぐことも、資本主義社会における営利企業による搾取として単純化することも、同じくらい現象の複雑性を無視しているのであり、この意味で仮面女子のパフォーマンス会場はこの二つの立場の間で文化のダイナミズムを記述することの難しさを考える絶好の参与観察の機会であった。

デモとアイドル

サマー・プログラムと同時期に東京で起こっていた政治的なデモを横目で見ていたわたしは、この仮面女子のパフォーマンスの会場に充溢するエネルギーを前にした時に何か所在のなさのようなものを感じてしまった。2015年7月から8月にかけては安倍政権の集団的安全保障関連法案の単独採決を前にSEALDsという学生グループを中心としたデモが毎週金曜に行われ徐々に活発化していた。サマー・プログラムの中で日本のポップ・カルチャーやメディア文化の政治的な側面についてももちろん議論され、例えば毛利嘉孝は安保闘争の祭などの戦後の抵抗の音楽の歴史を紹介し、マナベノリコは現在のSEALDsを含めるデモで使用される音楽の間テクスト性を論じた。なるほど確かに文化は抵抗の場であり、デモの音楽の中で繰り広げられるテクスト的遊戯性はひとつの政治的抵抗の可能性であろう。だとするならば日本のポップ・カルチャーやメディア文化が市民の政治参加に力を与える可能性もありうる。実際、ラップに合わせてシュプレヒコールをあげるデモの参加者たちと仮面女子のパフォーマンスにおける積極的なファンの「愛の労働」はとても似ているように見えた。だが、この両者が似ているということはどういうことなのだろうか? この両者における快楽と労働が類似しているとするならば、デモは政治的でアイドルは非政治的と明確に線引きし、その線引きを前提とした「ポップ・カルチャーが市民の政治参加に貢献している」というような議論を受け入れていいのだろうか? デモとアイドルの区別できなさは、「どちらも政治的でない」とも取り得るし、同時に「どちらも政治的である」とも取りえる種類のものであったように思う。

わたしがデモを横目で見ながらアイドルのパフォーマンスを見たときの所在無さというのは、より本質的には、「なぜこのエネルギーはこのような形でこの場所にエコノミーを形成しているのか?」という問いに帰着するのではないだろうか。デモの空間に集まるエネルギーは代議制をとる民主社会においては本来選挙という形で表象され循環されるべきエネルギーである。仮面女子の会場に渦巻く(おそらく大部分がヘテロの男性である)ファンとアイドルの「愛の労働」は、親密な私的な領域でなされる種類の労働である。ならばなぜそれらはここにあるのか? 国会前デモと仮面女子の会場における「愛の労働」は、それぞれ単に代議制と親密圏なり家族なり恋愛なりの機能不全として考えるべきなのだろうか? あるいはポップ・カルチャーとメディア文化が既存の表象のシステムでは表現しきれない可能性の領域を表現しているのだろうか? キーノート・スピーカーであるマーシャルはこの新しい可能性の領域を「ペルソナの時代」と名付けた。「ペルソナの時代」においては、メディア化された世界の中で人々が自己をペルソナとして戦略的に提示し、個人的なこと、親密的なこと、公共的なことの境目は曖昧である。仮面女子のパフォーマンス会場における「愛の労働」は、この「ペルソナの時代」の文化の一事例ということになるのだろう。ならばこの「ペルソナの時代」において、政治のエコノミーはどこに現れ、それはどのような言語で記述され、どのように文化一般から分節されうるのだろうか? 「ペルソナの時代」において、デモはやはり政治のエコノミーの周縁的で逸脱的な領域なのだろうか? あるいは、「ペルソナ化」した文化の担い手が文化のあり方を変容させたように、「ペルソナ化」した政治主体は政治のエコノミーのあり方やデモの意味合いを本質的に変質させうるのだろうか?

渡部宏樹(南カリフォルニア大学)