現代日本文化のネゴシエーション | インタビュー1 束芋@ヴェネチア | 1 |
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インタビュー
ヴェネチア・ビエンナーレ日本館 束芋展「超ガラパゴス・シンドローム」をめぐって
植松由佳(国立国際美術館主任研究員)
聞き手=門林岳史
——植松さんは、今年開催される第54回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館での束芋さんの展示「超ガラパゴス・シンドローム」でコミッショナーを務められます。私ども表象文化論学会ではこの4月に刊行される学会誌『表象』第5号で「ネゴシエーションとしてのアート」という特集を組みますが、それに関連して、「日本現代美術」というものがどのようなネゴシエーションのなかでグローバルな文脈に乗っているのだろうか、といった関心から、束芋さんの日本館展示について今日は話を伺っていきたいと思います。まずは「超ガラパゴス・シンドローム」というこの展覧会の基本的な構想についてあらためて伺えますでしょうか。
植松 「超ガラパゴス・シンドローム」というコンセプトは束芋との話し合いのなかから出てきたものです。束芋が日本館のプランとして考えているものを聞いていくなかで、それを「超ガラパゴス・シンドローム」として提示してはどうだろうか、と私が提案するかたちでこのコンセプトにたどりつきました。最初のプロポーザルの段階で、作家とコミッショナーには日本館の建物の写真や図面が与えられます。束芋は常に展示スペースの空間を活かす映像インスタレーション作品を考えますので、日本館の構成から「井の中の蛙」という言葉につながっていきました。「井の中の蛙大海を知らず」とは中国の古典に由来する言葉ですが、日本に受容される過程で「されど空の高さを知る」という言葉が付け加えられることになる。日本における受容の仕方の面白さもありますし、いったい「井の中の蛙」は本当に狭いのか、そのなかにどういう世界が広がっているのだろうか、ということを束芋が私に投げかけてくれて、そこから対話しているうちに日本の現代社会について提起されている「ガラパゴス・シンドローム」という言葉にたどりつきました。
ご存じのように「ガラパゴス・シンドローム」とは、例えば携帯電話のように日本国内で独自に発展していった結果、海外には通用しなくなるような状況を指して論じられています。けれども、私が考えるには、「ガラパゴス」にはもともと進化論の語彙としてポジティブな意味合いが強かったのではないか。「超ガラパゴス・シンドローム」という言葉に対しては、「日本国内でガラパゴスを極めていくんですか?」と「スーパー」の意味で捉える反応が多かったのですが、私としては、「ガラパゴス・シンドロームを超えていく」という「ビヨンド」の意味合いで使っているところがあります。つまり、束芋のアニメーション作品は、日本のマンガ文化の影響も指摘されますし、そのなかに現れるモチーフも日本の現代社会を反映しているので、いわゆるニッポン的なものを象徴する存在とも言われます。そういう意味では「井の中の蛙」とは束芋自身のことかもしれないけれども、束芋自身は作家として日本国内だけを意識しているわけではありません。そこで、ヴェネチア・ビエンナーレ会場のジャルディーニという第一次世界大戦後の欧米諸国の力関係を反映しているようなスペースのなかで、束芋の世界がいかに社会とつながっていくか、ということを考えてこのようなプランを出しました。
——例えば『ガラパゴス化する日本』の著者吉川尚宏氏は、日本の「ガラパゴス化」に対して危機感を表明した上で、「脱ガラパゴス化」というキーワードを出しています。「ガラパゴス」という言葉の元々の由来を振り返ってみると、ガラパゴス諸島の孤立した環境のなかで独自の生態系が築き上げられていて、例えばイグアナやゾウガメのような他にはない種の多様性が見られる。ダーウィンはそこから進化論を構想するにあたっての大きな着想を得たわけですが、他方ではそれは外来種に対して弱い生態系である。吉岡氏は日本の現状に対してそういった懸念を表明して「脱ガラパゴス化」を説いているわけです。それに対して、先ほど「超ガラパゴス」とは「スーパー」ではなく「ビヨンド」だ、という説明がありましたが、それはつまり、単に「ガラパゴス」をやめるのではなくて、ある種「ガラパゴス」を保持しながら、それを外に開いていく、ということでしょうか。つまり、固有性を確保しながらグローバルなコミュニケーションに乗せていく、そういう戦略と理解できるでしょうか。
植松 私自身は「超ガラパゴス・シンドローム」という言葉を肯定的に捉えています。記者会見のときにも「脱ガラパゴス・シンドロームではないのですか?」という質問をいただいたのですが、私はそうではなく、日本独自の文化のなかで生成してきたものにはよいところもある、と美術関係者として認識しています。現代のアニメーションや江戸時代の浮世絵といった日本国内で生成されたものについては確かに「ガラパゴス化」として論ずるべきところもあるかもしれません。けれども、そこからただ脱するというのではなく、それを肯定的に受け止めつつ、次の段階にどうステップアップしていくか。そういう意味で「超」という言葉を使っています。