研究ノート 冨山 由紀子

「カメラ雑誌」をどう読むか
冨山 由紀子

日本の写真史を考える上で欠かすことのできない一次資料に、写真雑誌がある。とくに、『アサヒカメラ』(1926年創刊)や『日本カメラ』(1950年創刊)のような、いわゆる「カメラ雑誌」と呼ばれる媒体は、アマチュア向けの技術・製品の紹介と、読者の投稿写真からなるコンテスト欄、プロ写真家による作品の掲載をおもな目玉として、写真界に大きな影響をもたらしてきた。

そのカメラ雑誌に関連する写真集が、ここ三年のうちに、あいついで刊行された。森山大道『にっぽん劇場 1965-1970』、『何かへの旅 1971-1974』(ともに月曜社、2009年)、長野重一『マガジン・ワーク60年代』(平凡社、2009年)、中平卓馬『都市 風景 図鑑』(月曜社、2011年)の四冊である。(図1~4)どれも、カメラ雑誌やその他の雑誌媒体に掲載された写真を、作家ごとにまとめた本なのだが、長野の場合、未発表カットやコンタクト・プリントをまじえながら、あらためて写真をレイアウトし直しているのに対して、森山と中平の場合には、当時の誌面をそのまま複写してまとめている点に特徴がある。

森山の本も中平の本も、彼らが発表してきた写真のすべてを収録しているわけではないし、もとの雑誌がもつ紙質や版型、写真のサイズや色が完全に再現されているわけではない。しかし、とにかくさまざまなテーマで撮られた写真が一堂に集められているため、内容もレイアウトも数ページごとに変化する、独特なめまぐるしさと刺激に充ちた本となっている。タイトルやリード文、キャプション、ノンブルに、森山の場合には写真の横に掲載された広告までもがそのまま収録されているため、いわゆる作品としての写真集とは異なる、いやに騒々しく濃密な空間が本全体から立ち上がってくるのである。ふだんは不可視化されがちな「レイアウト」という要素に目がいくのも、こうしたポリフォニックな作品集合体という構成ゆえの効果であろう。

たとえば、『にっぽん劇場 1965-1970』に収録された、『カメラ毎日』1966年4月号掲載の「あたみ」という作品を見てみる。まだ「新人」だったころの森山の、同誌での三つめの掲載作品だが、注目したいのは、写真のまわりに白い縁をつけたレイアウト・デザインである。作品が白縁に「囲い込まれている」ことで、熱海という町が、伝統と通俗性というある種の閉鎖性を孕む空間であることが表現されているのに加えて、その白縁の連続が生み出すイメージの相互作用性が、実に巧妙に仕組まれているのだ。

「あたみ」の二つめの見開きを見てみよう。右頁は、浴衣姿で布団に寝そべる男女をとらえたピンナップ写真が、壁かどこかに画鋲留めされている様子を大写しにした写真(図5)だが、ピンナップ写真自体が白縁つきなので、「白縁の(ピンナップ)写真が白縁の(森山の)写真のなかにある」という、白縁の入れ子状態が生まれている。左頁(図6)に視線を移すと、家族らしき老若男女が集合写真を撮ろうとして集まっているのだが、画面全体の粒子が粗いため、なにかすでに撮られた記念写真を複写した、これまた「写真を撮った写真」であるかのような印象をうける。レイアウト上の白縁が、写真そのものに付属する白縁のように見え、右頁では若干引き気味に撮られていた「白縁つきの写真」が、今度は画面いっぱいに撮られているのではないかという錯覚が起きてくるのである。こうした、目の前の現実を撮った写真なのか、「写真を撮った写真」なのかを判断させにくくするレイアウトは、「複写的な手法と情景描写とを区別して撮っているわけではない」という森山の意向(「作品解説」『カメラ毎日』1966年4月号13頁)を見事に具現化したものであると同時に、「写真を見る」という行為が、ふつう考えられているほど単純なものではないのだというメッセージを表明してもいる。

この時期の『カメラ毎日』には、レイアウトからタイトル、字体に至るまで、担当編集者の判断が色濃く反映されていた。イメージの複写という手法は、現在の森山を知る者にはさして目新しいものではないが、まだ駆け出しの森山をつかまえて、その写真がもつ力を存分に生かすレイアウトを組んでみせた編集者・山岸章二の慧眼には、今なお感服すべきものがある。『カメラ毎日』初掲載作品である「ヨコスカ」に、「あたみ」と、その次作品の「鎌倉」をあわせて「土地ものシリーズ」(同、1966年7月号11頁)と名づける視点の鋭さも、その後の森山を導く重要な指針となっていったのではないだろうか。森山の写真の〈外部〉にいたはずの山岸が、その写真の〈内部〉と、微妙なかたちで交錯してくるようにも見えるのだ。『にっぽん劇場 1965-1970』のあとがきが山岸へ捧げられているのも、頷けることである。

しかし、カメラ雑誌における編集者の関与は、各作品内の構成にのみあるのではない。この時期の『カメラ毎日』において「土地もの」を撮った写真家は、森山だけではなかった。柳沢信の「新日本紀行」(1968年連載)や下津隆之の「伊豆七島シリーズ」(1968-69年連載)など、複数の若手写真家が、ディスカバー・ジャパン・キャンペーンに代表されていくことになる観光旅行ブームを自己批判的にとらえながら、それぞれの視点で「新しい土地もの」に挑んでいたのである。彼らが重視したのは、既存の地域イメージを鵜呑みにせず、かといって、筑豊を撮る土門拳のように、声高にその土地の社会問題を告発するのでもなく、ただ黙々と自らのまなざしで目の前の事象をとらえることであった。マンネリ化した写真表現を打開し、誌面に新たな息吹を呼び込もうと奮闘していた山岸は、その想いをこれらの写真家に託したのではないだろうか。それはさらに、中央の「写真家先生」が「地方」を撮影し、あるいは「地方アマチュア」の指導へ赴くという、「写真家の旅」に潜むヒエラルキー的な力関係(そして、そうした「写真家の旅」を企画し、目玉商品の一つとしてきたカメラ雑誌の伝統)を突き崩そうとする試みでもあったかもしれない。

いみじくも森山自身が述べているように、雑誌とは、「ここまでは中西さんの作品、ここまでは佐藤さんの作品というふうに区切って見たんじゃつまんなくな」ってしまうものでもある。(同、1970年12月号48頁)ここで森山が語っているのは、一冊の雑誌をどう見るべきかについてであるが、この視点をさらに広げ、雑誌という文化そのものを、さまざまな写真家や編集者、読者が行き交う一つの歴史的な場として見るならば、作家や作品といった単位にとどまらない、ダイナミックな視座で写真史を読みなおすことができるのではないだろうか。カメラ雑誌は、写真史研究における文字通りのインターテクストであり、宝の山なのである。

冨山 由紀子(東京大学)

図1

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図3

図4

図5

図6