現代日本文化のネゴシエーション 美術

り☆ぷれぜんてーしょん
――3・11以後、日本のアートは変わるか?

野田 吉郎

日本の現代美術(コンテンポラリーアート)の海外受容――と、とりあえず与えられたテーマを走り書きしてみたものの、想定される「むこう」と「こっち」のどちらのアートにも通じていない者が、どうやってその現状を報告すればよいものか。両者の境界策定もままならないのに、「こっち」で右往左往することだけはできてしまう。そんな状況を逆手にとるなら、一体どんなものが受容可能な「日本」として世界に送り出されているかと問い直し、それに極力安易に答えることから再出発を図るよりほかあるまい。

2000年代に入ってからよく耳にする「クール・ジャパン」の標語。それは、日本のアニメ、マンガ、ゲーム、映画などのコンテンツ産業だけでなく、伝統文化の様式美や職人の技を生かしたファッション、食、場合によっては高度な省エネ技術も含め、世界で通用する文化を海外に向けて発信していこうとする国内の気運を表したものである。背景にはもちろん、90年代以降の長い不況にあえぐ日本が、あらたな産業の創出に活路を見出そうとする政治的思惑がある。

日本のオタクカルチャーを取り入れた作品で、1990年代後半から国際的なアーティストとしての地位を確立してきた村上隆の近著『芸術闘争論』を読むと、彼のアートの核をなすのはオタク好みのモティーフを使った表現でも、それを日本の伝統的な絵画と接続してみせる「スーパーフラット」のコンセプトでもなく、日本の「クール」な創造産業に共通して見られる、ディテールをおろそかにしないものづくりの姿勢であったのだと気づかされる。好き嫌いに還元されないクオリティの面でワンランク上のアートに仕上げること、それがなくてはモティーフやコンセプト、アーティストの出自を含む「日本」の表象が俎上に載せられることもないのだろう。

昨年末から今年初めにかけて、首都圏の三つの美術館では、「最先端の日本の現代美術を一度に楽しめる」といううたい文句で小谷元彦、曽根裕、高嶺格の個展が開催された。いずれの会場もメディア横断的な展示がなされていたが、「クール」さにおいて際立った表現力を見せたのが小谷であった。それは、彼の彫刻作品を論じる際、皮膚感覚を刺激する要因としてしばしば言及される、テクスチュアへの執拗なこだわりゆえである。

村上や小谷は今後、日本のアートにおけるプレゼンテーションの復権というコンテクストの中で捉え直されるべきアーティストである。「プレゼンテーション」という言葉には、作品そのものや展示、それからいわゆるプレゼンなどの意味が含まれる。しかも、一つのプレゼンテーションはいつでも何らかのリプレゼンテーションとなる。しかし、いま「復権」と言う場合のそれは、(見かけ上の)一次受容の場を提供することにほかならず、以下では便宜的に「ぷれぜんてーしょん」と表記することにする。実際、村上の生み出すキャラクターには、「クール」な分野のそれと遜色がない意匠と、それ相応の媒体が与えられている。また、小谷の人体表現は、見る者をして身に覚えのない痛みを感じさせる(少なくともそう語らせる)。

断っておくが、受容が一次的であるか否かは、必ずしも作品のクオリティには左右されない。MADムービーのような二次創作もしくはより高次の派生的創作にも、インターネットというそれ本来の受容の場が存在している。ゼロ年代の終わりに「10年代のアート」を標榜して現れた「カオス*ラウンジ」のアーティストたちは、そうしたネット上のコミュニケーションに、アートとしてのコンテクスト(批評性と言ってもよい)を付与することには成功したかもしれない。しかし彼ら自身は、キュレーター役の黒瀬陽平が宣言したとおり「地上」に姿を現した時点で、いったん、ぷれぜんてーしょんを放棄することとなった。

さて、「カオス*ラウンジ」は置くとして、「クール」さを欠いた最先端のアート、すなわち曽根や高嶺の作品がどう受容されているかが気になるところだが、展覧会評をいくつか見たかぎりでは、作品を、追体験もしくはその不可能性によって明らかにされる無限の体験の可能性にゆだねてしまう見方がほとんどだった。おそらく国内の主流を占めるであろう、そうしたあんぷれぜんてーしょなるな可能性志向のアートは、海外の国際展では、あえて何も訴えかけない積極的態度、との画一的な見方がなされている聞く(ちなみに「10年代」のアーティストからはアクチュアルな文化ではないと完全否定されている)。

6月からはじまるヴェネツィア・ビエンナーレの日本館展示に、出品作家として選ばれた束芋は、対外的には、ぷれぜんてーしょなるなアーティストと言えるだろう。初期のアニメーションから一貫して、外国人が手を叩いて喜びそうな「にっぽんの」風景を描いてきた。そんな彼女がヴェネツィアで見せる次なる日本の風景は「ガラパゴス化」であるという。それは通常、情報通信技術をはじめとするさまざまな産業分野で日本が独自の進化を遂げ、世界標準からかけ離れていく現象をさすが、今回は従来の風刺的なスタンスとはちがい、ガラパゴス化を真っ向から否定しない立場でそれを超えようとする試みなので、コミッショナーの植松由佳は展示のコンセプトを「超ガラパゴス・シンドローム」と名付けたそうだ(日本の独自性を否定せずに達成する「脱ガラパゴス化」や、「クール・ジャパン」の発想とのちがいについては今後の説明を待ちたい)。

未見の展覧会についての憶測は控えねばなるまいが、南米沖に浮かぶ火山群島の、保全すべき生態系を念頭に置いていることは想像に難くない。それだけに一つ気がかりなのは、3月11日の地震とそれにともなう津波によって起きた福島の原発事故を受け、放射性物質の拡散を恐れる外国人の日本離脱が続いている現在、言い換えると日本がもう一つの深刻な「ガラパゴス化」に直面している今の状況下でも、そのロジックが通用するのかということである。

話を本筋に戻すと、事故を通じて自慢の環境技術にも冷水を浴びせられた「クール・ジャパン」は、いまや文字どおりのホット・スポットと化し、「フクシマ」は日本だけの問題ではないと、国際社会から的確な情報提供(ぷれぜんてーしょん)が求められている。日本の新聞では震災後まもなく、「3・11」が「戦後」からの暴力的解放をもたらしたという耳を疑うような有識者の言葉が伝えられたが、もし日本がほんとうに「災後」の時代へと移行していくとすれば、それは今回の共通体験を過去へと敷衍して思考できるようになるという意味での「戦後」の終焉であると願いたい。アートの分野で言えば、それは平板化したローカリズムの輸出という現在のグローバリズムへの対応では済まされない、ぷれぜんてーしょにずむの時代のはじまりに対応する。ヴェネツィアで束芋がその先鞭をつけるのか、それが海外で日本のアートがコンテンポラリーであることの証明となるのか、あるいは見向きもされないのか。いずれにせよ、日本のアートのガラパゴス化の真偽のほどと、今後のゆくえを探る展覧会となることを望む。

野田吉郎(東京大学)