新刊紹介 | 単著 | 『スピノザの方法』 |
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國分功一郎『スピノザの方法』
みすず書房、2011年1月
本書は、主として『知性改善論』、『デカルトの哲学原理』、そして『エチカ』におけるスピノザの論述を丁寧にたどり、そこからスピノザに固有な思考の「方法」を導出しようとする野心的な書物である。そのスピノザに固有な「方法」を明らかにするため、デカルトの「方法」が綿密に参照される。
本書におけるスピノザの「方法」は、おおまかに述べるなら、次の二点に要約することができる。第一に、思考における無限遡行を徹底して排除すること。例えば、「知性の改善」のためには思考の「道具」が必要であると考えるなら、その「道具」は、それを作るための別の「道具」を必要とし、さらにその別の「道具」を作るためにはそれとは別の「道具」が必要とされる(以下、無限に続く)。こうしたソフィスト的、あるいは神経症的無限遡行を排するために、スピノザは、論証による他者の説得というモメントを排除し、一気に真理に到達すべきであると、あるいは真理に到達した者のみが真理を理解できると考えた(創出された方法ではなく、創出的方法)。そこから、スピノザは、デカルト的意味での説得ではなく、むしろ(神という)観念の構築そのものに力点を置くことになる。
第二に、思考における超越性を排し、徹底した内在論を追及すること。デカルト主義は、超越性を一種の「ブラック・ボックス」(あるいは、ラカン派精神分析的に言えば、表象不可能な「穴」)として措定し、すべての認識、表象を、その認識不可能な超越性、あるいは「穴」に依拠させるという危険を孕んでいる。デカルトは、この危険にうすうす気づいていたが、結局のところ神の観念をコギトと直結させ、コギトにおける神の表象と超越性を短絡してしまった(國分の言う、表象的観念思想)。それに対して、スピノザはそうした超越性を注意深く排し、神の観念を、その観念に内在的な「自己原因」という概念から定義する。神の観念をその観念そのものに内在的な視点から捉えることによって、スピノザは、観念における観念の内在という特異な思考を獲得したのである(國分の言う、脱表象的観念思想)。こうしたデカルトとスピノザの対立は、マルクス主義/構造主義哲学者ルイ・アルチュセールの概念を用いれば、表出的因果性(理念的超越性がすべての対象に表出される)と構造的因果性(構造の原因が構造そのものに内在する)の対立と言い換えることができる。また、スピノザにおける「自己原因」、あるいは「内在原因」は、國分が深く影響を受けているドゥルーズ哲学における、徹底した内在論(例えば、ドゥルーズ最後のテクストである「内在:一つの生……」を参照)に呼応している。
國分のスピノザ解釈は、とりわけ上記の第二点のような、いわゆる「現代思想」に呼応する視点を有しながらも、同時に、徹底してスピノザのテクストに寄り添ってそれを証明することで、奇妙な説得力を獲得している。その意味で、本書は単なるスピノザ研究書であるにとどまらず、積極的に一つの哲学書であることを志向しているのだ。私から著者に一つだけ質問したいのは、観念に内在する観念という「概念の創造」が、純粋な「理論的実践」(ルイ・アルチュセール)に終わることなく、どのような仕方で「実践」へとつながっていきうるのだろうか、という点だ。それは、ある種の治療実践――真理を知ることによって主体は変容する、といった――になるのだろうか。「教育」という、本書の最後で提示されたモチーフが、今後この点をめぐってさらに展開されることを期待する。(佐藤嘉幸)