新刊紹介 単著 『文学のミニマル・イメージ――モーリス・ブランショ論』

郷原佳以『文学のミニマル・イメージ――モーリス・ブランショ論』
左右社、2011年2月

本書は、パリ第七大学に提出された博士論文をもとにした画期的なモーリス・ブランショ論である。顔のない作家・文芸批評家ブランショといえば、連想される鍵概念は「不在」「無為」「死」「非人称」「彷徨」「中性的なもの」といったものだろう。作家は諸事物が消え去っていくその不在の現われを記述するのであり、書くことの孤独に身を投じることで、もはや「私」という権能を失い、非人称的な「彼」として彷徨する。私が私自身の死に到達することがない中性的な位相にも等しく、文学とは無為(脱作品化)の空間である、というように。

こうしたブランショ独特の鍵概念とその強烈な文章表現からいかに距離をとればいいのかは、ブランショ論が発表され始めた1960年代からすでにブランショを論じる者にとっての試金石であり続けてきた。郷原の著作はまず、こうしたブランショ的な呪縛とは一線を画しているように見える「文学とイメージ」という主題を設定している点で異例である。ブランショの文学作品や文学論は、現実を視覚的地平のもとで模倣するようなあらゆる表象の機制とは縁を切っているようにみえるし、実際、イメージよりもエクリチュールの徹底化としてブランショの文学論は定式化されてきた。なるほど、ブランショには「遺骸的類似」という一種のイメージ論はあるが、それはブランショの文学論の各論として論じられるだけだった。郷原の著作は、「イメージをめぐる肯定の思考におけるブランショの重要性」(22頁)を説得的に論証することで、ブランショの文学の核心を描き出す正統な総論たりえている点で独創的である。「視覚的喚起力とは別の次元にありながら、にもかかわらず『イメージ』と呼ばれるしかないような何ものかをめぐる独特な思考」(13頁)がブランショのなかに見い出されるのである。ブランショを読む上での最低限のイメージが刷新されたと言っていい。

郷原が着目するのは40-50年代、とりわけ40年代後半から50年代前半のブランショである。これは、コジェーヴのヘーゲル講義とサルトルの文学論を背景に書かれた1948年のマニフェスト的論考「文学と死への権利」から、ハイデガー存在論をもとに〈死ぬことの不可能性〉を脱作品化=無為としての文学の実相に迫る1955年の決定的著作『文学空間』に至るまでの時期を含む。雑誌論考数編が単行書化されていなかったこともあって(昨年、論集La condition critique Articles 1945-1998, Gallimard, 2010として単行書化された)、ブランショの文学論の着想が、その文芸批評と虚構作品の執筆を通じて、この時期にいかに洗練されてきたのか、必ずしも総体的に明らかにされてはこなかった。『文学空間』に至る「文学者ブランショ」の生成過程が解明された点で、本書はブランショ研究にとっての大きな貢献である。

本書は二部構成で、第一部では主にマルローやサルトル、レヴィナスが参照されつつ、ブランショ独特の概念「遺骸的類似」の生成過程と思想史的な解明がなされる。第二部では、イメージと文学の関係へと議論はさらに移行し、ブランショにおける言語としてのイメージが「形象」――「顔」「形姿」「彫像」のみならず、「文彩」をも意味し、イメージよりも具体的な事物を指し示す――という視点から論じられる。主に物語『望みのときに』が複数の観点から読解され、文学言語における命名行為、詩的イメージ、供犠の意義が指摘される。

本書には従来のブランショ論を刷新するいくつもの発見と論証がなされている。第一部第一章2では、マルローの美術館論に寄せたブランショの書評から、美術館は作品の生を剥奪する墓廟であるとする「美術館病」(ブランショ)をめぐる議論が展開される。芸術作品は、その物質性ゆえに破壊されていく自らの未来時を先取りすることで、引き裂かれた現在時の隔たりにおいて、〈自己への類似〉として、自己同一性を欠いたまま自律する。こうしたアナクロニックな絶対的な隔たりによる作品の本質的孤独という主張こそが、ブランショの文学論の形成に寄与していることが指摘される。また、第二部第四章では、マラルメが提起した日常言語と文学言語の区別をもとにして、ブランショの言語論がヴァレリーやポーランの参照を通じて読み解かれる。ヴァレリーが区別したように、貨幣のように意味を交換し流通し理解させる日常言語に対して、文学言語は言語の物理性や感性性を洗練させるときに可能となるのか。いや、マラルメに忠実なブランショは、日常言語から遊離した純粋な文学言語などありえず、両者の混交と振動状態のうちにこそ、文学の「驚異すべき営為」――文学のミニマル・イメージ――を見てとるのである。ただし、本書は狭義のブランショ研究書にとどまるものではない。文学や哲学のみならず、芸術論、修辞論、詩論などの豊富な知見と参考文献をもとにして、絵画と文学、表象と現前、視覚と聴覚、イメージと言葉、自己と他者といった対立項が繊細に読み解かれる本書を通じて、読者はきわめて鮮やかな脱構築的読解を堪能することができるはずだ。

そして、もっとも驚かされる点で、とりわけ研究者にとって大切な点だが、本書で展開される的確な洞察と直観と論理が、あくまでもブランショのテクスト群の虚心坦懐な読みの誠実さに端を発することはくり返し強調されるべきだろう。「あとがき」(309頁)によれば、郷原がパリ第七大学の博士課程に進学した際に、指導教授のクリストフ・ビダン氏は「テーマを決めずにブランショのすべてのテクストを発表順に読み直すこと」を指示したという。通例であれば、大学院生は研究計画をもとに進学して研究を展開し、大学教員は詳細な研究指針と見通しのもとで科研費などを取得しながら成果を出す。そうした趨勢とは異なって、郷原はテーマなしの保留状態で「不安に苛まれつつも」、一年間、ブランショのテクストと向き合ったという。その誠実な読みの強度から生み出されたかくも豊饒なブランショ論は、文学研究に対する最低限の姿勢とはいかにあるべきかを私たちに教示している。

本書は最先端のブランショ研究書であり、きわめて高度な水準で議論が展開されるのだが、しかし、一般読者も「馴染みやすい」書物ではないだろうか。それは主題や問いの明確さ、論理の的確な流れはもちろん、文学の肯定性への最低限の姿勢が、ブランショに向き合った筆者の経験と文体から溢れ出ているからだろう。郷原は「文学の勝利」を宣言する革命家的身振りとは無縁だが、しかし、本書が発する「尽きることのない魅惑的な喜び」(190頁)から、「文学はけっして死に絶えることはない」という最低限の確信を私たちは抱くのである。(西山雄二)