新刊紹介 単著 『帝国日本の閾 生と死のはざまに見る』

金杭『帝国日本の閾 生と死のはざまに見る』
岩波書店、2010年12月

死の脅威のもとで剥き出しになった孤独な個人が、セキュリティを求めて自らを国家へ委ねる決断をすること。ホッブスはこれを、国家―国民生成の超越論的契機として見出した。国家や国民はあらかじめ実在するのではない。個人が希求するセキュリティの関数として生成するのだ。

金氏は、以上の観点から近代主権国家としての帝国日本を分析し、その国家生成の根源のそれと気付かれない閾下に、「朝鮮人の肉体」が潜在していたと論じる。上記のように「日本人である」ことは自然的・歴史的な自明性を持たない。死に直面した素裸の肉体が生存をかけて「日本人になる」だけだ。そのことは、関東大震災後の戒厳令や、半島における戦時徴兵といった例外状況のもとでの植民地朝鮮の人々の経験において最も顕わであり、同時に最も深く隠蔽された。彼らは生きるために「日本人」たることを決断しなくてはならない。一方で、「日本人」たることは「朝鮮人」を――震災後の虐殺や戦場への徴兵というかたちで――死に追いやることを伴う。この生と死のパラドックスは、植民地朝鮮に限定されない。これこそが、著者によれば「帝国日本の存立を根底において支えている、根源的なロジック」(265頁)なのである。

本書の多くの部分は、こうした国家―国民生成の根源に間近まで迫りながら頓挫したと著者が評価する、丸山真男と小林秀雄の方法についての考察にあてられる。彼らの方法とその思想史的文脈を読解したうえで、その方法の不徹底ゆえに彼らが頓挫した地点から上述の命題を見出していくという本書の構成には、戸惑いを感じる向きがあるかもしれない。一方で本書には、哲学・法学・文学といった学問区分を蹂躙し、未だ思考されたことのない領域を踏破しようとする、凶暴な知性とでもいうべきものが満ちあふれている。政治思想・ナショナリズム論は言うまでもなく、「日本」というカテゴリーが関与するあらゆる分野において、読者に多大な刺激を与え、ラジカルな思考を喚起する書物である。(横山太郎)