研究ノート 井戸 美里

日本美術の風景
井戸美里

昨年9月よりハーバード・イェンチン研究所に滞在している。ハーバード・イェンチン研究所は、主として東アジア、東南アジアの若手研究者を対象に一年から一年半の間、ハーバード大学のコースを聴講しながら自国へ提出する博士論文を仕上げるための研究助成プログラムを提供している。生活圏内にある大学付属美術館、ハーバード・イェンチン図書館、ボストン美術館には、日本関係の所蔵品も多く、日本の中世絵画を研究対象とする私にとっても申し分のない研究環境である。また、中国美術史や韓国美術史を専門にする研究者たちとの対話を通して、前近代東アジア(漢字文化圏)というより広い文脈から日本美術史を捉え直すことができるのも、本研究所が与えてくれた貴重な場である。

日本国外に所蔵される作品を実際に調査できるのも在外研究の大きな利点である。ボストン美術館へは週に一度通いながら、日本からの学芸員の方たちの訪米の際には、ともに調査を行っている。先月も、ワシントンD.C.にあるフリーアギャラリー(スミソニアン博物館)やニューヨークのメトロポリタン美術館などを訪れ、屏風、絵巻物、画帖などの調査を行った。図版やデジタル画像がこれほど普及している現代においても、作品を実見しないことには論じてはならない、という一見古めかしくも見える基本姿勢が根強く日本美術史のディシプリンには残っているが、それなりの重要な意味があることを思い知らされる。特に中世の屏風絵など、何世紀も前に制作された作品の場合には、それらの作品が歩んできた道のり(例えばもともとある邸宅の襖絵であったものが後世に屏風絵として改装されていたり)といったものが、紙の継ぎ目や引き手の痕跡など、作品を熟覧することを通して見えてくる。また、こうした作品を前にして常に実感するのであるが、手で繰り拡げながら閲覧する絵巻物であれば、時間軸に沿って展開される詞と絵が紡ぎ出す物語を、また、生活の場や儀礼の場に根ざした調度として作られた屏風絵であれば、開くことによって作り出される一時的な空間を、本来の受容形態を通して時空を超えて体験することができるのである。

米国の学会での活動についてもここで少しまとめておきたい。私はこれまでも金屏風や茶室など、屏風絵の作り出す非日常的な仮構空間について考えてきたが、最近では屏風絵を中心に美術館で調査を行い、その結果をもとに、16世紀後半から17世紀初期という江戸時代への移行期に描かれた風景の意味について考察を行っている。私が所属しているのは、欧米の美術史系の学会のなかでも最も大きな学会の一つであるCollege Art Association (http://www.collegeart.org/)と北米を中心にアジア研究を行うAssociation for Asian Studies (http://www.asian-studies.org/) である。今年の三月末にフィラデルフィアで行われたAssociation for Asian Studiesの大会でパネルを組んで発表を行ったので、その報告を中心にまとめることで研究ノートとしたい。

もともとのパネル構成の経緯は、表象文化論学会のメンバーでもあり現在はピッツバーグ大学ポスドク研究員(当時マギル大学の大学院生)のKIM Gyewonさんがオーガナイザーとなり、ハーバード大学ライシャワー研究所ポスドク研究員(当時イェール大学の大学院生)のRobert GOREEさんとともに、写真、文学、絵画それぞれ専門の分野から、日本の「名所」の意味を問い直すことを目的として構成したものであった。

私の報告は、中世から現代までの「名所」についてのパネルのうち、屏風絵や襖絵に描かれる中世の名所の風景についてである。「名所」はもちろん自然発生的に生じるわけではなく、本来「名」を与えられた場所が「名所」であるが、日本の中世において名所絵として屏風や襖に描かれる名所は、和歌に詠まれる風景と常に関係しており、名所歌枕から屏風絵を描く、あるいは、屏風絵を見て歌を詠むという行為を通して「龍田川」「吉野」「松島」などは「名所化」されてきた。こうしたなか、風景が和歌的な言葉の世界から切断され、新たな「名所」の意識が生まれるのは、日本で初めて都市を描く「洛中洛外図」の誕生とともにある。政治中枢にあたる武家や公家邸を対峙させ、繁栄する都を緻密に描出する都市図は、それまで和歌的世界を概念的な存在として捉えてきた名所のイメージとはかけ離れた風景であった。十五世紀に至るまで描かることのなかったこうした京都の中心地は、応仁・文明の乱による戦国の荒廃からの復興を経て、生まれ変わった新たな都として可視化されたのであるが、特に発表で扱った「洛中洛外図屏風」は、これまでほとんど考察されていない京都の郊外を焦点化して描く「洛外図」と呼ぶべき屏風絵である。「洛中洛外図屏風」の終焉と言われる十七世紀に入ってから描かれる「洛外図」であるが、実はこれこそ、和歌に詠まれてきた古典的名所への回帰であったのではなかったかと思われる。和歌的、古典的な世界から断絶されることによって生み出された「洛中洛外図」に活写される政治中枢は、洛外に視点をずらして描く「洛外図」では影を潜めている。画面の各名所に貼付された数百枚の「名」を記した貼紙は、観者に和歌的な言葉の世界を再び喚起させる。「宇治」「伏見」「嵐山」など天皇家由来の土地が再び脚光を浴びる時期とは、まさに、首都機能が京都から江戸へと移行するころ、京都が江戸とは異なる新たな自己像を模索する過程に生み出された過渡的な表象であったと考えられるのではないだろうか。

桃山時代から江戸時代への移行期は屏風絵や襖絵の黄金時代とも言えるが、ここに映し出される風景をしばらくの間追い続けていきたいと思っている。

井戸美里(ハーバード・イェンチン研究所 Visiting Fellow)