第5回研究発表集会報告 研究発表 2

研究発表2

2010年11月13日(土) 9:30-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2

研究発表2:現代芸術における表象とその回路

同語反復と謎──1960・70年代における形而上絵画の系譜
池野絢子(京都大学/日本学術振興会)

〈アルバム〉から〈トータル・インスタレーション〉へ
──イリヤ・カバコフ「十の人物」をめぐって
藤田瑞穂(大阪大学)

ニューヨーク・ダダにおける自己表象のポリティクス──鏡を手がかりとして
宮内裕美(お茶の水女子大学)

「悪」の拡散と暴力の遍在──ピンチョン『メイスン&ディクスン』について
玉井潤野(京都大学)

【司会】佐藤良明

研究発表2では、「現代芸術における表象とその回路」のテーマのもと、池野絢子氏(京都大学),藤田瑞穂(大阪大学),宮内裕美氏(お茶の水女子大学),玉井潤野氏(京都大学)の4名の発表が行われた。

池野絢子氏は「同語反復と謎 ーー 1960・1970年代における形而上絵画の系譜」と題して、ヤニス・クネリスとジュリオ・パオリーニといった、同語反復やイリュージョンの排除を方法としてきたはずのアルテ・ポーヴェラ (戦後のイタリアを代表する芸術運動)の作家たちが、運動以後、形而上絵画の代表的作家であるジョルジョ・デ・キリコの作品をどのように受容し、時代を越えて反復されるものに関心を抱き、その表現に落とし込んでいったかについて考察した。池野氏は、クネリスとパオリーニは、1970年代以降、しばしば断片化された石膏模像を媒体として、神話や古典古代の要素を作品のモチーフに組み込み始めたが、こうした動きを単にポストモダンの前触れとして理解することを留保する必要があることを示唆し、彼らの制作が共通してデ・キリコを参照していることを指摘した。そして、形而上絵画において石膏は「もの」としての「人間」を象徴しており、60・70年代の作家たちは、断片化された石膏模像と「もの」を並べることによって「もの」と「人間」との境界に揺さぶりをかける試みを行ったと分析した。また、過去の芸術作品の複製としての石膏模像が、後の時代に時代を越えて反復されることがデ・キリコの古典主義につながることを指摘し、反復されることで個別性を失った人間を表象したものであり、二つの側面、すなわち近代的な人間像に対する批判的な傾向と、方法としての過去の芸術の表象とが結びあう点が見て取れると論じた。

質疑応答では、今回の発表における池野氏のポストモダンの定義についての質問があった。池野氏は、過去の芸術作品をパロディとして作品中に表すものをポストモダンとし、今回の発表で採り上げた諸作品はそれらとは制作の趣旨を異にするものだと説明した。

宮内裕美氏は「ニューヨーク・ダダにおける自己表象のポリティクスー鏡を手がかりとしてー」と題して、マルセル・デュシャンの別人格とされるローズ・セラヴィの表象に着目し、マン・レイ、エルザ・フォン・フライターク=ロリングホーフェン(通称男爵夫人)との協力制作や関係性の中で自己表象の事例の考察を行った。デュシャンによる自己表象の事例とマン・レイによる肖像写真集、及び、男爵夫人の自己表象や表象のされ方についての分析は、当時の男性芸術家による自己表象と女性芸術家による自己表象の戦略的なあり方を示すこととなった。

また、デュシャン―マン・レイ―男爵夫人の交流を踏まえ、デュシャンとローズ・セラヴィの関係に男爵夫人を重ね合わせ、互いの存在を鏡像として捉える先行研究をもとに、シュルレアリスムにおける自己表象としてクロード・カーアン等の事例を参照しつつ、自己表象における「鏡」のテーマの重要性と個別の事例における差異と特徴を指摘し、今後の研究への導入として位置付けた。

宮内氏の発表は、芸術家による自己表象の事例について同時代的な文脈に照らしつつジェンダーの視点から分析を加えることで、この問題を語る可能性を示すと共に、セクシュアリティの問題としても語り得ることを示したと言える。

フロアからは、自己表象におけるポリティクスの問題として、ローズ・セラヴィに男爵夫人を重ねて解釈することの根拠についての質問があった。これに対し、宮内氏は作家の意図に還元される解釈の視点のみが唯一絶対のものではないことを説明した。

玉井潤野氏は「「悪」の拡散と暴力の遍在ーーピンチョン『メイスン&ディクスン』について」で、トマス・ピンチョンの長編第四作『ヴァインランド』と第五作『メイソン&ディクスン』を比較し、それ以前のピンチョン作品において、人智を超え、追跡と探索の届かない領域から、登場人物たちの実存を含む世界全体を脅かす不可視の抽象的存在であった「悪」の矮小化と、現世における「悪」の滅びは、普通の人間が隣人にとって十分に脅威となりうることの証とし、その意味について考察した。まず『ヴァインランド』では、比喩によって勧善懲悪が表され、言葉のレトリックとしての側面が最大限に引き出されていること、また直接的な暴力を描かないことによって、提起されている問題が純粋な「悪」から遍在する言葉の「暴力」へと推移していることを指摘した。次に、『メイスン&ディクスン』では、この「暴力」が、選択しないことの不可能性、つまり歴史による拘束、言語の慣習という二つの形に比喩されていることを示した。

玉井氏の発表がセッション中、一人だけ文学を扱ったものであるのに対し、 佐藤良明氏から、 ピンチョンが60年代にロブ・グリエらが実践したようなメタファーを剥ぎ取っていく表現の試みから発展するような作品を手がけるなどして、 アメリカ文学のポストモダニズムと呼ばれるようになった経緯の説明があり、玉井氏の発表と、セッション全体のテーマとのつながりが示唆された。

藤田瑞穂は「〈アルバム〉から〈トータル・インスタレーション〉へ──イリヤ・カバコフ「十の人物」をめぐって」で、主題を同じくしながら作品形態を異にする〈アルバム〉「十の人物」と〈トータル・インスタレーション〉「十の人物」を比較し、カバコフの制作意図について検証した。とりわけ重要なモチーフである〈白〉および〈ゴミ〉について、まず〈白〉は、非公式の芸術活動時代のカバコフの現実と正反対の世界を表した「あらゆるものよりはるかに輝ける光に満たされた」ものを表している側面を持っていたと考察した。そして〈アルバム〉で使われている子供のイラストは、ソ連の人の普通の意識にとっては平凡さのイメージ、象徴であり、その平凡なイメージを解体し、かき消してしまうものとして〈白〉の存在があったが、その対立構造は理解されず、それを伝えるためには、新たに、平凡さを象徴するものとして登場したものが平均化された日常的な存在のメタファーとしての〈ゴミ〉なのだと論じた。〈白〉と〈灰色〉の〈ゴミ〉、光と陰、内と外、といった対立構造を次々と生み出し、時には真逆の方向からテーマを打ち返す、という往復運動を繰り返す、ある意味パラドクシカルな状況をも発生させるというカバコフの試みは、その度重なる往復運動によって、多層なものとなっていくが、そういった、ソビエトを出たカバコフの制作姿勢の原点が、2つの「十の人物」にはあるのだと結論づけた。

各人の発表を終え、司会者により、今回のセッション全体に対して、あたかも20世紀という時代が一つの文化であったかのように、各発表者の発表内容がどこかでつながっている、そんなことを感じさせられ、またそれぞれに、ある可能性をゼロにしていくような方向から始まり、そこからまた芸術が膨らんでいくというテーマでの一つのパネルが成立したと言えるのではないか、とセッション全体を見渡す形でのまとめがなされた。

それに対して、玉井氏から他の発表者に向けて、20世紀そして現在においては情報化が進んだが、今回の発表で扱われた作家において、それを利用した試みがあるかという問いかけがなされた。それに対し藤田は、カバコフがCD-ROMに〈アルバム〉「十の人物」から「クローゼットのプリマコフ」を収録する試みを行っていることを挙げた。

セッションの最後には、発表者相互の対話がなされた。藤田はイリヤ・カバコフが、自身の作品における「ゴミ」と称する特質と対比して「芸術家のゴミ」すなわち、芸術家に選ばれた「ゴミ」としてマルセル・デュシャンの「泉」を例として挙げているが、デュシャンの作品において、カバコフが「ゴミ」と語るものについての宮内氏の見解を求めた。 これに対し宮内氏は、カバコフの日常的なものの作品への取り込み方と、デュシャンの日常的なオブジェの使い方が基本的に異なることを説明した。

池野氏からは、ピンチョンやカバコフにおいて先の時代の作家の作品の受容の問題が存在するかという問いかけがあった。玉井氏はピンチョンが覆面作家であること、ナボコフの授業を受けていたらしいという情報はあるが、詳細が不明であり、先行研究ではメルヴィルやジョイスとの類似点が指摘されたりすることもあるが、具体的な影響関係については述べられていないと説明した。また、藤田は、カバコフがあらゆる先の時代の作家の作品を、芸術だけでなく文学においても参照していることを説明した。池野氏は、カバコフの作品と類似点を持つ現代作家の作品があるため(ソフィ・カルが例示された)同時代の作家の作品にも影響を受けたものがあるのではないかと指摘した。

このように、司会者の導きによって、発表者同士の意見交換がなされるなどパネルとしてのまとまりを持ち、また現代という時代との関連性についても言及されたことで、本セッションは「現代芸術における表象とその回路」というテーマにふさわしい内容となったと思われる。

藤田瑞穂(大阪大学)

発表概要

同語反復と謎──1960・70年代における形而上絵画の系譜
池野絢子(京都大学/日本学術振興会)

戦後のイタリアを代表する芸術運動、アルテ・ポーヴェラ。1960年代にこの運動に参加した作家たちは、70年代に入って運動自体が収束に向かうと、各々の道を模索していった。そのうちヤニス・クネリスとジュリオ・パオリーニは、しばしば断片化された石膏模像を媒体として、神話や古典古代の要素を作品のモチーフに組み込み始める。

70年代にクネリスやパオリーニが取ったこうした方向性、すなわち神話や歴史の参照は、現在の視点から見ればいわゆるポストモダンの前触れとして理解可能であろう。しかし、そうした分類による理解には一定の留保が必要である。そもそも、同語反復やイリュージョンの排除を方法としてきたはずのアルテ・ポーヴェラの作家たちすら、このような転換へ向かうことになったのはなぜだろうか。

ここで注目したいのは、彼らの制作が共通してジョルジョ・デ・キリコを参照していることである。デ・キリコは形而上絵画の代表的作家であり、彫像やマネキンを主題とした謎めいた作品で広く知られている。本発表では、60・70年代の芸術家たちとデ・キリコの接点として「謎」「もの」「人間」といった観点を取り出し作品分析を試みる。彼らがデ・キリコの制作をどのように解釈し、何を引き継ごうとしたのかを明らかにすることで、過去との結びつきを担うはずの石膏模像が、反人間主義的な性格を帯びているという事実が浮き彫りになるだろう。

〈アルバム〉から〈トータル・インスタレーション〉へ
──イリヤ・カバコフ「十の人物」をめぐって
藤田瑞穂(大阪大学)

イリヤ・カバコフ(1933〜)は、ソビエト時代に〈アルバム〉と呼ばれる、絵とテクストを組み合わせた、全て同じ大きさの数十枚の紙から成る作品群を多く制作していた。その代表的なものが「十の人物(十のアルバム)」(1970-74)である。そして、ソビエトを離れ海外で作品発表を行うようになると、カバコフの作品は〈トータル・インスタレーション〉と呼ばれる形式へと変化する。〈トータル・インスタレーション〉「十の人物」(1988)は、その初期の作品にあたる。〈アルバム〉ではそのページをめくることによって作品を閲覧する平面的な形式であったのに対し、〈トータル・インスタレーション〉は立体的な形式となり、観客はその中に入って作品に参加することが出来る。この表現方法の変化には、ソビエトの外において個別に作品の展示を行っても文化的差異から観客に作品の意図が伝わらなかったことから、新たな表現形式を模索したことが背景にあると考えられる。このように、主題を同じくしながら作品形態を異にするこの2作品を比較考察することは、ソビエトの外におけるカバコフの作品の変化を考える手がかりとなる。本発表では、それぞれの「十の人物」に関して、人物像の相違について考えるとともに、〈アルバム〉から〈トータル・インスタレーション〉へと変化したその作品形態にも注目し、作品世界を観客に伝えるための手段としての〈トータル・インスタレーション〉という手法を確立したカバコフの制作意図について検証する。

ニューヨーク・ダダにおける自己表象のポリティクス──鏡を手がかりとして
宮内裕美(お茶の水女子大学)

マルセル・デュシャンによる自己表象の試みには、女性人格“ローズ・セラヴィ”の事例のように、ジェンダーの転換を介したアイデンティティ撹乱の身振りのみならず、彼の作品全体に共通するセクシュアリティの表象の問題を見ることができる。

こうしたデュシャンの事例は、自己表象を巡る様々な実験がなされた1920年代のニューヨーク・ダダの文脈における芸術家たちの参照項として、また、性を巡る表象の多様な可能性を提示した主要なものとして、近年の先行研究において参照されている。

以上を前提として、本発表ではデュシャンとその周辺の芸術家たち――マン・レイ、エルザ・フォン・フライターク=ロリングホーフェン等――の事例を再検討し、同時代的な自己表象の文脈を探る。具体的には、デュシャンとの共同制作で知られるマン・レイによるポートレート集、また、デュシャン(ローズ・セラヴィ)とエルザの相互的影響関係による作品を対象とする。考察の際には、まず鏡を介した関係性になぞらえて分析を行った先行研究を参照する。さらに、シュルレアリスムの芸術家の自己表象を彼らのパートナーシップの反映(ミラー・イメージ)として読み解く分析手法を敷衍し、検証する。この過程において、ダダとシュルレアリスムの自己表象の事例を連続的地平において語る文脈を構築し、それらの事例を芸術家による自己表象の系譜に位置付けてジェンダーとセクシュアリティの視点から再考することがこの試みのねらいである。

「悪」の拡散と暴力の遍在──ピンチョン『メイスン&ディクスン』について
玉井潤野(京都大学)

トマス・ピンチョン長編第五作『メイスン&ディクスン』は、前作『ヴァインランド』において描かれた「悪」の消失という現代小説の課題を背負う大作であり、本発表は両者の比較からこの点を明らかにする。

それまでのピンチョン作品を特徴づける「悪」は、人智を超え、追跡と探索の届かない領域から、登場人物たちの実存を含む世界全体を脅かす不可視の抽象的存在であった。ここからの脱却を図るための実験作が『ヴァインランド』である。後者における悪役は生身の肉体をもつ一政府役人に過ぎず、事実結末においてあっけなく死ぬこととなる。しかしこれは楽観的な兆候ではない。『ヴァインランド』を境にしたピンチョンの変化を、漠然と楽観的なものと捉えるのがこれまでの研究の動向であり、本発表はこの点に関し明示的に一つの区切りをつける。

むしろ、「悪」の矮小化とその現世における滅びは、極々当たり前の人間が隣人にとって十分に脅威となりうることの証ととらえられる。『メイスン&ディクスン』において主人公たちを苦しめる敵役は、作中で主題的に取り上げられる奴隷制やアメリカ原住民からの土地の略取といった問題とは直接のかかわりを持たないことからも知られる。すなわち、正確にはピンチョンは、「悪」の消滅ではなく拡散を描いている。これは、「悪」と対峙することで自己を正当化しうる 「善」への疑いとも通底し、価値観の徹底的な多様化と政治的・宗教的原理主義の勃興する現代を背負うピンチョンの、これまででもっとも重要な作品とすら言える。

発表においては、関連するいくつかの主題・モチーフにも言及しつつ、こうしたピンチョンの前期/後期の転換の意味と必然性について論ずる。